「公平」と「平等」には大きな違いがある。「平等」という言葉には、個人個人の労に応じた報いの概念が薄い。一方「公平」という言葉には、個人個人の労に応じた報いという意味合いが強い。人間は自分の働きに応じた報いを当然のごとく期待するものとして造られている。子育ての基本は「褒める」ことであり、それは子どもにとっての報いである。スポーツ選手であれ、学者であれ、芸術家であれ、大成した人たちはみな褒められることを経験している。逆に褒められる体験をしたことの無い子どもは、人格的欠陥を持って大人になってしまうケースが多い。「夢」「やり甲斐」「チャレンジ」「向上心」「達成感」「やる気」などは、人が当たり前に抱く思いで、働きに対する報いがその前提になっている。
機械やロボットにはそんな感情はないので、「公平」という言葉も当てはまらない。私は共産主義国家が全て貧しくなり、崩壊してしまった理由は、「公平」の概念を捨ててしまい、「平等」という発想のもとに、人間を機械と同じに扱ったところにあると考えている。共産主義では個々の働きに応じた報いが否定された。一生懸命働いても、いいかげんに働いても「平等」な報酬なので、国民の労働意欲が低下し、生産性が落ち、国家的破綻に陥る結果となった。今日、共産主義国家はほんのわずかしか残っていない。そして元共産主義国家は、例外なく貧しい。
聖書は「平等」ではなく「公平」を教えている。聖書が教える報い方は、「よくやった人」と「よくやらなかった人」とでは明確な違いがある。タラントを預かってそれを2倍に増やした僕には「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイの福音書25:21)というお褒めの言葉がかけられ、その人にはさらなるチャンスまで提供されている。またローマ2:6は「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」と言っている。聖書は「平等な報い」を説いていない。
実はそう言う私も理解に苦しんだ聖書の箇所がある。それは、1日中働いた労働者も、最後の1時間だけ働いた労働者もみな同じ額の報酬をもらった話である(マタイの福音書20:1~16)。これはまさに「公平」でなく「平等」の話だ。でもここでの報いの本当の意味は、経済的報酬ではなく「救い」であり、救いに関しては「後の者が先になり、先の者が後になる」ことの例え話なので、公平概念を覆すものではない。
聖書には、初代クリスチャンたちが、一度は共産主義を採用した事実が書かれている(使徒の働き2:44,45)。でも教会内の「平等」は長続きしなかった。不平不満が爆発し、その制度は短期間の内に消えてしまった。共産主義国家が崩壊したように、聖書には共産教会の話は、その後一度も出てこない。
ところで報いを偽善で得ようとした人たちがいる。パリサイ人は、人前で立派そうに見えることをし、人々の称賛を得ようとした。しかし神は見えない部分に報いてくださるのだ。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。