聖書は特別な目的(創造・堕落・赦(ゆる)し・救い・愛などの伝達)のために書かれたので、記述されていないことがたくさんある。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」(ヨハネ21:25)と言っている。
イエスと12弟子は、どのようにして生活の糧を得ていたのだろうか。イエスは12弟子を遣わすとき、「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、2枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である」と言われた(マタイ10:9、10)。でも別の時には、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」と命じられた(ルカ22:36)。後者の命令は、自分の身は自分で守らなくてはならない(経済面においても)ことを意味する。
イエスが5千人の空腹の問題を解決するよう弟子たちを促したとき、彼らは自分たちの持参金では到底そんなに大勢の人のために食料を確保することなどできないと思った(ルカ9:13)。その時はパンと魚の奇跡で問題が解決されたが、イエスがいつも自分と弟子たちのためにパンの奇跡を行ったとは考えにくい。もしそうだとしたら、荒野で「この石がパンになるように命じなさい」というサタンの誘惑に打ち勝った意味がなくなってしまう(マタイ4:3)。弟子たちは自分たち用の食べ物を買うお金を持っていたし、イエスを裏切ったユダは、会計係をしていた(ヨハネ12:5、13:29)。すなわちイエスと弟子たちは、どこからか収入を得て日常生活をしていたことは確かだ。
では彼らの生活費はどこから来たのだろうか。神殿の予算の一部をもらっていたとは考えられない。神の冒涜者と思われていたからだ。クリスチャンたちが財産を共有したのは、ずっと後の話である。4人の漁師が「人間を取る漁師にしてあげよう」というイエスの召しを受け弟子になったとき、職業を本当に捨てたのだろうか。「網を置いてついて行った=職業放棄」と解釈する必要があるのだろうか。イエスと弟子たちは、幾度となくガリラヤ湖でボートに乗った。しかもいつでも乗れる状態にあったようだ。それらのボートは、漁師である弟子たちの所有であったと考えるのが自然ではないか。納税の問題を突きつけられたときも、イエスは弟子に、漁に行き、魚の口からコインを見つけるように命じられた(マタイ17:24~27)。
以上のことから、漁師である弟子たちは、伝道の合間に漁をして生計をたてていたと推測することができる。イエスの復活後にも、普段通りに漁に出かけたに違いない。使徒パウロも天幕を作りながら、生活と伝道を両立させていた(使徒18:3)。これが「Tent-making=自活伝道」という表現の由来となっている。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
◇
木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。