私は「清貧に甘んじる」という考えが好きではない。「清貧」とは「清く」て「貧しい」ことを意味するが、「清くなる」ことには何の抵抗もない。テサロニケ人への手紙第一4:3は「神のみこころは、あなたがたが清くなることです」と言っている。我々は、聖霊の助けにより、「罪性」から解放され、「清さ」に向かう必要があり、またそう命じられている。でも聖書は、貧しくなることが霊的成長だとは言っていない。ガラテヤ人への手紙5:22、23では、聖霊が働くと、人はどういう実を結ぶようになるかが書かれている。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であって、それらを否定する律法はないと言っている。ここに「貧しさ」という単語が出てこない。
聖書の中には、貧しい人の話が多く出てくるし、「地上に宝をつむな」(マタイの福音書6:19)というイエスのことばがある。でも「貧しいことは良いことだ」とは書かれていない。もし貧しいことが良いのであれば、イエスは金持ちの青年に「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイの福音書19:21)とは言わなかったであろう。貧しいことが「聖人」になる条件だとしたら、施せばそのチャンスを奪うことになるからだ。でも聖書では「施し」の重要性が説かれている。施しは、いわば貧乏の撲滅運動である。Food for the Hungry とか World Vision などの慈善事業団体が知られているが、全て貧しさの解消がその目的となっている。それらの働きに関わっている人は、誰ひとりとして、第三国の人たちにいつまでも貧困であって欲しいなどと思っていないはずだ。
申命記15章には、貧しい人を救済するためにしなければならない色々な事が書かれている。ここを読むと、神は人が貧しくなることを決して望んでおられないことがわかる。「清貧に甘んじる」という概念がどこから来たのかわからないが、少なくとも「貧しくなる」のは神の御心ではない。人々が日々必要としているものは、天の父は始めから知っていて、栄華を窮めたソロモンの衣類よりもっと美しい野の草以上に、心を留めてくれると、イエスは言った(マタイの福音書6:29~32)。貧しさは「思い煩い」の原因となるが、心配しないでまず神の国と義を求めれば、貧しさから開放されるとイエスは言う(6:33)。
「貧しさ」を美徳とすることは、「豊かさ」を悪とすることと同じだ。豊かさは本当に罪なのだろうか。金持ちの青年の問題は、その「豊かさ」であったと考える人がいるが、本当は「豊かさ」ではなく、「貧困」解消に関心がなかったことが問題だった。「貧しいひとは貧しいままでいれば良い」というのが、青年の態度だった。もしあの青年が最初から貧しかったら、貧しいことのゆえにイエスに褒められたであろうか。私はそう思わない。全ての富とその源は、神が人に提供されたものなので、提供者である神が人に向かって「貧しくなれ」と言うはずがない。神は、人が貧しくなるのを決して望まれない。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。