神と富とに兼ね仕えた人がいる?!
聖書は、富を罪悪視している印象を受ける。イエスは「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」(マタイ6:19、20)とおっしゃった。そして決定的なことばが、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)である。
聖書の中に、大きい倉を作って富を蓄えた人物が少なくとも二人いる。二人に共通するのは、穀物という富の備蓄だ。彼らは地上に宝を積んだ人たちなので、神に咎められたに違いない。一人はもともと金持ちであったが、ある豊作の年、穀物の入れ場所に困った。それで次のように言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」と(ルカ12:18、19)。案の定、彼に神の裁きが下った。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」と(12:20)。この金持ちはイエスのたとえ話に出てくる人物だが、神と富とに兼ね仕えることが出来なかった典型的な例で、命まで失う羽目になる。
富を蓄えたもうひとりは、ヨセフだ。エジプトの司の地位まで上りつめたヨセフは、7年間続いた豊作の時多くの倉を用意し、余った穀物を町々に蓄えた。収穫があまりにも多かったので、次のように記されている。「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」(創世記41:49)。でもヨセフは神から愚か者と呼ばれることはなかった。やがて飢饉が起こった時、ヨセフは備蓄してあった穀物をエジプト人に売り始めた。買いに来たのはエジプト人だけではなかった。ヨセフの故郷パレスチナでも飢饉があり、それがきっかけとなりヨセフの兄弟達(イスラエルの12部族の始まり)が、エジプトに住むようになった。すなわちヨセフの備蓄がアブラハムの系図の命綱となった。
おろかな金持ちと、ヨセフの違いは一体何だったのだろうか。それは貪欲か否かの違いである。金持ちは、富を分け与える気持ちは毛頭なかった。「そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」という神のことばがそれを証明している。一方ヨセフの方は、貪欲からではなく、危機管理としての備蓄だった。その証拠に飢饉が来た時、エジブト人だけでなく外国人にも売った。ヨセフがいなければ神の選民イスラエルの歴史は、終わっていたことになる。彼こそ、神と富とに兼ね仕えることが出来た人物ではないか。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。