献金する時、お金の一部を自分のために残すことは妥当なのだろうか。これは時々重大問題となる。たとえば礼拝献金の時、2千円献金しようと思っていたら、財布に1万円札しかないことに気付く。苦渋の選択の結果、1万円札を献金籠に入れてしまう。でも心は穏やかでない。予定が狂ってしまうからだ。そんな時、会計さんに頼んで、おつりをもらうことは出来るだろうか。でも自分が1万円を入れたという証拠を示すことは出来ないので、会計さんも困ってしまう。こんな体験をされた人は意外と多いかも知れない。
「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか」ということばで責められ、ただちに命を奪われたアナニヤとサッピラ夫婦の出来事(使徒5:1~11)は、私に少なからず恐怖心を抱かせた。お金を少しでも自分のために残しておいたら、それはすなわち聖霊を欺くことで、一番恐ろしい裁きが待っているという印象を与えるからだ。100%捧げなければ命を失うというこの事件と什一献金の教えは調和するのだろうか。
あるキリスト教の大会に参加した時、最後に献金のアピールがあった。その時、司会者はひとりの青年の話をした。「先日の大会で、ある青年は聖霊に燃え、帰りの電車賃まで献金し、数時間の道のりを賛美しながら歩いて帰って行った」と。その言葉は「あなたの財布にお金を残したままで良いのですか? 全てを捧げるべきではないのですか?」のように響いた。アナニヤとサッピラ夫婦の出来事を知っている人は、大きな葛藤を覚えたに違いない。私はそれ程の信仰を持ち合わせていなかったので、持っているお金の一部だけを献金した。もちろん什一献金とは別枠の献金であった。
夫婦そろって神を欺き、悲劇をもたらせた最初の人は、アダムとエバであった。ではアナニヤとサッピラの欺きは何だったのだろう。「売った地所の代金の一部を自分のために残しておいた」ので聖霊を欺いたという印象をうけるが、ペテロは「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか」と言っている。すなわち売ったお金を全部自分達のために使っても、それは問題ではなかった。一部だけ献金することも可能だった。でもアナニヤとサッピラの唯一の問題は、偽善行為であった。「全財産を捧げるほど立派な信者である」という印象を与えるために、本当は財産の一部であったにもかかわらず、うそをついて「全財産である」と言った。イエス・キリストが地上の生涯の中で一番嫌われたのは、パリサイ人の偽善であった。有名な山上の垂訓の大半が、パリサイ人的偽善行為に対する鋭い警告であることからもわかる。
我々は献金に関して、不必要な恐怖感を覚える必要はない。献金は一部でもかまわないからだ。ただ良い印象を与えるために、うそをついて献金したら、懲罰ものである。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。