献金の祈りの中で、私には気がかりな表現がある。「あなたに与えられた物の一部をお返しできたことを感謝します」のことではない。もちろん苦しい財政の中から無理して献金した人が、「献金できたことを感謝します」と本音で言えるのかどうかの疑問は残る。内心「本当は後悔しています。そのお金があれば、子どもに新しい靴を買えたのに」と思っている場合もあるかも知れない。でも私にとって不自然に思える表現は「感謝します」ではなく、「この献金を聖めてお用い下さい」である。私はこの表現の意味が良くわからないので、献金の感謝の祈りを頼まれる時、「聖めて」という表現を用いない。
「聖めてお用い下さい」と言うからには、献金箱にお金が入れられた時点までは、お金は汚れていたということになる。もともと聖い物に対して「聖めてお用い下さい」とは言わないはずだ。これは中学生のころからの疑問であった。お金はいつ汚れてしまったのだろう。サラリーマンが真面目に働いて得た月給は、どの時点で汚れたのか? 商売人が安く手に入れた物を、より高く売った時の利益が汚れているのだろうか? 世の中の経済は、すべての人たちが価値の差額(富の分配)を得ることで成り立っているので、もし差額で儲けたお金が汚れているなら、経済は成り立たなくなってしまう。
これは献金する人の心の罪と、献金そのものの区別がつかなくなってしまったことの結果ではないだろうか? 聖書の中に、不正な手段で金持ちになった人が登場する。それは取税人ザアカイだ。彼は、人々から税金を余分に徴収し、ネコババしていた。当時の取税人は皆同じようなことをしていたので、「取税人=罪人」という概念が出来上がっていた。でもザアカイは、イエスに出会って改心し、言った。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」(ルカによる福音書19:8)と。でもザアカイは「私の財産の半分を献金しますから、また不正な取立てをしたお金を四倍にして返しますから、それらを聖めてください」とは言っていない。ザアカイが必要だったのは、罪の告白と自らの聖めであり、不正な行為に対する賠償責任であった。このやりとりを見る限り、たとえ不正に得たお金であっても、お金そのものが汚れてしまったわけではなさそうだ。なぜなら罪を犯すのは人間だけで、価値(富・お金)そのものは罪を犯したり、聖められたりする性質のものではないからだ。キリストの十字架上の贖罪は、人間のみがその対象で、元々神が提供された富の罪のためではない。
もし罪人ザアカイの献金ですら聖められる必要がなかったのなら、真面目に働いて得たお金を献金する場合、なおさらのこと聖められる必要はないのではないだろうか。「お金=汚れた物」という概念は、正しいとは思えない。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
◇
木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。