イエスの復活後、漁に戻ったペテロたちが何も取れずにいた時、イエスが「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(ヨハネ21章6節)と言われ、その通りにすると、網を引き上げることができないほどの魚が取れたと書かれている。これは弟子たちがやがて「人間をとる漁師」となることの象徴的な出来事であると思うが、私はこの記事を、経済的観点から見ることがある。その場合の着目点は「網」だ。網は漁という労働の効率を高めるために、人間が考え出した道具だ。被造物の中で、人間だけが「神に似せて造られた」(創世記1章27節)。そして神の特徴の一つが「創造性」である。人にも創造性が与えられており、常に新しい事を考え、今まで無かった物を作り出すことができる。私たちの目の中に飛び込んでくる物で、自然に存在する物以外は、全て例外なく誰かが考案し作り出したものだ。もし人間に創造性がなかったなら、文明はなく、生活の向上もない。聖書も無ければ教会も存在しない。キリストを十字架につけた釘すら無いということになる。
もちろん網も人の発明品であるが、どの発明品にも「人の役に立つ」という共通の目的がある。もし網なる物が世の中に存在しなければ、すなわち手で1匹ずつ捕まえていたなら、世界の大多数の人たちは、魚を食べることはないだろう。網は世界の人に魚を提供するためになくてはならない道具となっている。
動物には「富の循環」なるものは存在しない。なぜなら自分が食べる分しか収穫しないからだ。究極の自給自足の生活である。金持ちのライオンと貧乏なライオンがいるという話を聞いたことがない。「富の循環」が無ければ、金持ちも貧乏もない。もし人間に「富の循環」の発想がなければ、世界60億全員が、動物のように毎日自分の食べる物を探しまわる生活になってしまう。そしていわゆる産業とか職業というものは存在しなくなる。でも神のかたちに似せて造られた人間は、道具を発明し、他人に分け与えることのできる量を収穫するようになった。農夫がコンバインを使って自分が食べる以上の作物を収穫し、漁師が網や船を使って売ることのできるほどの量の魚を捕るのは、すべて富を多くの人たちに分け与えるための工夫である。それぞれが道具を使って自分に必要な分以上の物を生産・収穫するので、農夫でなくてもお米を食べ、漁師でなくても魚を食べることが可能となる。これを「富の循環」と呼ぶことができる。富の源は創造主なる神によって無償で提供されているので、人に分け与えることのできるだけの労働をすることにより富は循環し、人は動物のような生き方ではなく、自分の使命、夢、天職を追求する生き方ができる。このように、道具には富の循環をより活性化させる働きがある。乱獲、環境破壊、富の循環の不公平性などの大きな問題点に関しては、後に触れることにする。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。