沖縄の苦難をどう捉えるのか、沖縄の苦難を宿命とするのか―沖縄に将来があるとすれば、それは一体何であるか
佐喜眞美術館長の佐喜眞道夫さんの書かれた「沖縄の心を」の中で、丸木位里・俊の「沖縄戦の図」を解説している文章がある。そこにこう記している。「この絵は沖縄戦という地獄を克明に描き、戦争の実相を余すところなく表現していて、そのすさまじさに見るものをして一瞬たじろがせます。しかし、じっと目を凝らして見ていると、水墨の奥からさまざまな形が見えてきて、『語られることのない戦争の闇』を透かして『闇の向こうの光』までも伝え、逆に勇気が与えられます」。私はこの言葉に驚きをもって読んだ。「沖縄戦という戦争の地獄の闇の向こうにある光が見える」というのだ。ここに歴史の深層が横たわっているのを感じ取る。
沖縄の人々の声には「いつまでこの闘いをしなければならないのか」というため息とつぶやきがある。彼らは疲れ切っている。疲れて体が消耗していても、基地反対と日本の人権差別からの解放を叫ぶのは、沖縄人であろうとするからである。「沖縄だから仕方がない」という運命論、「差別を受けるのは沖縄の宿命なのか」という葛藤が沖縄の人々の中にある。「沖縄の宿命であってはならないとすれば、それはどうあるべきか」という葛藤である。この葛藤は沖縄の自己確立の葛藤であると見る。
沖縄の叫びは叫びだけで終わってはならないし、叫びだけでは終わらない。沖縄戦の語り部を通して、艦砲射撃の中で逃げ迷っている人々の叫び声が痛みをもって私の中に響いて来る時、主イエスの十字架上の最後の言葉「わが神わが神、どうして私を捨てたのか」という叫びと重なって聞こえる。「どうして沖縄がいつも差別を受け、捨てられる立場に置かれるのか」と、悶々と湧いて来る現在の沖縄の人々の叫びも、あのイエスの叫びと重なって聞こえるのである。
ヨハネによる福音書9章には、イエスの弟子たちが生まれつき盲目の人を見たとき、「この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか。それとも両親ですか」と、イエスに質問をした場面がある。イエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が罪を犯したのでもない。ただ神のみわざが彼に現れるためである」と答えられた。このイエスの言葉を沖縄に当てはめてみるとどうなるであろうか。
九州での講演の帰り、乗り合わせた機内でその講師と隣席して話をする機会があった。その先生は全てを前向きに考える人であることを知った。「どうしていつも前向きの考え方をするのですか」と尋ねると、「沖縄戦の聞き取り調査を千人以上の人に聞いている中で、全てのことを前向きに考える見方が身についた」と言われた。「あの悲惨な沖縄戦を経験した者たちにとって、『明日に向かって生きるには、全てのことを前に向かなければ生きていくことができない』と、人々の生き方を見て自分もそのような考え方に変わってきた」と語られた。
沖縄の400年の差別の歴史を、運命としてそれを宿命のように考えるべきではない。沖縄の人々の葛藤は自己確立のための葛藤であるが、その場合、差別を与え続けている者に対する復讐の論理を構築して自立に向かうのであろうか。もしそうだとするなら、どこに時代と民族を超えた普遍性が起こり得るのか。
差別を受ければ受けるほど、むしろその逆に別の新しいものが蓄積されているのを私は見る。差別する者と差別される側との二極間の対立よりも、それを越える大きなパワー、ここから新しく生み出される宝石のようなもの、それが蓄積されるということである。その新しいもの、これこそ「神のみわざが沖縄に現れる」ことであると信じるが、それは一体何であろうか。
それは平和を作り出す使命感と、最も弱く虐げられた者への人権回復ではないか。沖縄が痛みを経験すればするほど、その意識が深められ蓄積しているのだ。今は基地反対運動に集中して、それに精力を費やして精根尽き果てている状態でありながらも、ここから「沖縄の自己確立と自己決定権」が着々と養われていると見る。沖縄には、日本にあるような右翼・左翼意識は希薄である。あるのは、日米同化とそれに対する「沖縄の自己確立と自己決定権」の自覚である。この「沖縄の自己決定権」の樹立が、日本人の「自己確立と自己決定権」を呼び起こし、69年前に打ち出した「日本国憲法」の「主権在民」「基本的人権」「平和主義」を本格的に育てることになる、と言っても過言ではない。
日本は対米従属によって天皇制を温存し、その国家構造の傘下に財界と官僚と政治が現存し、それが明治以来の「国家有機体説」(国民一人ひとりが国家を形成する細胞)と「国家無答責の法理」(国政に仕える上級公務員は、天皇に対してのみ責任を負い、公権力を行使して国民に損害を与えても国家は賠償責任を負わないとする原理原則)の構造的差別社会を形成している。そのような中で、未だに日本の民衆意識の中に「平和憲法」の主張する「主権在民」が成熟していないと言える。
しかし今や、世界の中心はアジアに移行しつつある。世界経済の3分の2がアジアに集中していると聞く。これから求められる東アジア共同体という大きな潮流の中に、日本が仲間入りできる登竜門は歴史認識と日本の戦争責任にある。これがきちんと解決できないならば、国際的に置き去りにされるであろう。
そんな中で、この「沖縄の自立と自己決定権」の確立が、東アジア共同体の核となって拡がることを予見する。現に、「沖縄が『国連東アジア本部』となって世界平和に貢献する」という声が、沖縄の人々の間で高まってきている。沖縄は地域的にも歴史的にもその最適な条件にあると言われているからだ。
ペテロは、使途行伝2章の説教でヨエル書を引用して「終わりの時には、・・・あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(17節)と語った。キリストを十字架にかけて殺す策略的行為は罪悪そのものであるが、神はイエスを「人々の手に渡されて、神ご自身の手の中に受け取られた」。人間の悪の行為を御自分の栄光のために用いられ、十字架で死んだキリストを復活させ、天に昇らせ聖霊を送って教会のかしらに君臨させて教会とこの世界を統治させたもうたからだ(23、24節)。神は、民族の差別と争いの闇の中にある異邦人世界にもこの福音を伝えるために、若者に幻を見せ老人に夢を与えられた。この夢を私たちは沖縄で見ることを期待する。キリストが照らされた光を沖縄に照らすのは、この光であると信じる。
■ 沖縄における植民者としての日本人と私:(1)(2)(3)(4)(5)
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川越弘(かわごし・ひろし)
1945年石川県生まれ。日本キリスト教会沖縄伝道所牧師。日本キリスト教会靖国神社問題特別委員。