二. 父の投網漁
「あっ、捕れた、捕れた! でっかいなあ。お父ちゃん、この魚なんて言うの?」
「あー、それは鯉だよ。刺身にすると旨いんだゾー!」
「へー、じゃあこれは?」
「それはボラだよ」
「すごいねー、今日は大漁だあ!」
戦後間もない頃、私はまだ小学生だった。父は、時折、荒川に小舟を出して私を投網漁に連れて行ってくれた。東京の下町で地方公務員をしていた父の週末の楽しみは、投網漁であった。
父は、小舟の櫓(ろ)を巧みに漕(こ)ぎ、いつも下流の千住大橋辺りの漁場に行った。投網を入念にそろえて、網を左肩に背負い込んで船の舳先(へさき)に立つ。川面の流れをじっと窺(うかが)い、間合いを計ってここぞという時に、網を勢いよく前方に放り投げる。
円錐状に広がった網が、水面をバシャッと叩き、白い水しぶきが上がる。網は瞬く間に水中に沈む。父は、両足を踏ん張りながら、ずっしりと重い網をゆっくりとたぐり寄せる。漕ぎ手のいない小舟は、水中の網を軸にして川の流れにその身を任せている。
私は、父の傍らで、今度は何がかかったのだろうかと期待に胸をふくらませて、固唾をのんでのぞき込んだ。網の先端が水面近くに現れると、魚体が網の中でキラキラと光って見える。投網漁の醍醐味は、この瞬間にあった。
しかし、川は、いつも私たちを歓迎してくれるとは限らない。時には、何度網を投じても小魚一匹かからないことがあったり、ある時には、私たちの楽しみの場に邪魔が入った。
だるま船(運搬船)が、上流の砂利や土砂を満載して、ポンポンポンとけたたましいエンジン音を響かせながら川を下ってきた。すれ違いざまに大きな波を立てられて、私たちの小舟は木の葉のようにゆらゆらと揺れ動いた。そこで父は、体のバランスを両足で取っていた。一方、私は、恐怖のあまり船のへりにつかまりながら、波が行き過ぎるのを待った。
また、ある時は、潮の満ち干の変わり際に、川の流れが逆転するのを目の当たりにして驚きもした。まさに自然の不思議を垣間見た瞬間であった。
父は、幼い私には頼もしい存在であった。
父は、夕日が傾くまで力強く何度も網を投げた後に、「さあ、今日は終わりにしようか?」と呟いて再び櫓を手に取り、家路についた。
小舟の行く手には、沈み行く茜色の夕日が、遠い秩父連山のシルエットをくっきりと映し出し、私たちに一日の終わりを告げてくれた。
我が家に帰ると、獲物の一部は近所にお裾分けし、残りは父が捌(さば)き、夕餉(ゆうげ)の食卓を飾った。家族で川魚料理に舌鼓をうつ一家団欒(いっかだんらん)の楽しい一時だった。
亡き父の九回忌を間近にした初夏の日に、私は、息子と川面に釣り糸を垂れながら、ふと幼い日の原風景へとタイムスリップしていた。
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高橋幸夫(たかはし・ゆきお)
1947年、東京生まれ。68年、東京都立航空工業高等専門学校機械工学科卒。同年小松製作所入社、海外事業本部配属。78~83年、現地法人小松シンガポールに出向駐在、販売促進業務全般に従事。この間、アセアン諸国、ミャンマー等に70回以上出張する。88~93年、本社広報宣伝部宣伝課長として国内外の広告宣伝業務全般及び70周年記念のCIプロジェクト事業の事務局として事業企画の立案・推進実行に従事。欧米出張多数。93年、コマツのグループ子会社に出向。98年、早期定年退職制度に従い退職。2006年、柏市臨時職員、柏市介護予防センター「ほのぼのプラザますお」のボランテイアコーデイネータ。07年、天に召される。