冬のある日、花模様のコーヒーカップから淡い湯気が渦を巻きながらゆらゆらと立ち上っている。その湯気を何気なしに眺めていると、ふと懐かしい昔の記憶が蘇ってきた。
それは二十七年ほど前のことだ。インドネシアのカリマンタンは熱帯雨林に包まれた未開の地。島の南端に位置する町、バンジャルマシンは森林伐採の一大拠点であった。炎熱のロギングロード(木材運搬道路)を奥地に向けて疾走するランドクルーザに我が身を任せること八時間あまり。ようやくたどり着いた原木切り出しの最前線地、そこがプンドックだ。
うっそうとした原生林で、木材伐採や積み出し用の重機が、大きなエンジンの音を灼熱の大地に響きわたらせていた。噴き出す汗は止めどなく流れ、いちいち拭くことが億劫(おっくう)になるほどだった。
近くを流れる川には、切り出されたばかりの原木が筏(いかだ)に組まれ、河口の港への旅立ちを静かに待っていた。その川の水は、大地を削り取り、茶褐色に濁り、とうとうと音もなく流れていた。
突然、川べりから一本の大木が落とされ、バシャーッ、と大きな音を立てて水面を叩き、飛び散った水しぶきが陽光を受けて、一瞬、キラキラと輝いた。そして辺りには再びしばしの静寂が訪れた。
切り開かれた密林の一角にあるゲストハウスの扉を開けて、足を一歩踏み入れると、室内ではエアコンがこれでもか、と言わんばかりに大きな音を立てながら冷気を部屋中に押し出していた。猛暑で消耗しきった体を休めていると、中年の華僑とおぼしきまかないのおばさんが、コーヒーを運んできた。そして微笑みながら、
「プリーズ!」
と言って、コーヒーカップをテーブルにそっと置いて出て行った。
コーヒーカップから立ち上る湯気の底には、なみなみと注がれた薄茶色のコーヒーが垣間見えた。そのコーヒーの色は、川に流れていた水と見紛うばかりの色で、私は、一瞬、戸惑った。
コーヒーカップに向かってフーッと一息吹きかけると、ミルクコーヒーの甘い香りが湯気と共に辺りに漂った。一口、二口とゆっくりと味わいながら飲んでゆくと、カップの底に沈殿した砂糖が見え隠れしてきた。それを一気に飲み干すと、ジャリッという舌触りと共に砂糖の甘さが口一杯に広がった。
その得も言われぬ甘さと、室内の冷気が相まって、私の炎天下での疲れ切った体をいっぺんに癒やしてくれた。私は、ふとその時、これが噂に聞いていたジャワコーヒーの飲み方なのか、と思った。
その日、私はコーヒーカップを口元まで運び、その匂い立つ香りをしみじみと味わいながら、あの時、熱帯雨林の奥地で、身を粉にして立ち働く人たちが見せてくれた遠来の客へのさり気ないもてなしの“心遣い”に思いを馳せていた。
一杯のコーヒーが呼び覚ました遠く懐かしい思い出の一コマである。
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高橋幸夫(たかはし・ゆきお)
1947年、東京生まれ。68年、東京都立航空工業高等専門学校機械工学科卒。同年小松製作所入社、海外事業本部配属。78~83年、現地法人小松シンガポールに出向駐在、販売促進業務全般に従事。この間、アセアン諸国、ミャンマー等に70回以上出張する。88~93年、本社広報宣伝部宣伝課長として国内外の広告宣伝業務全般及び70周年記念のCIプロジェクト事業の事務局として事業企画の立案・推進実行に従事。欧米出張多数。93年、コマツのグループ子会社に出向。98年、早期定年退職制度に従い退職。2006年、柏市臨時職員、柏市介護予防センター「ほのぼのプラザますお」のボランテイアコーデイネータ。07年、天に召される。