微笑む父の遺影の前にべっこう色に鈍く光っている一本の尺八がある。私の父が、生前こよなく愛したものだ。今は、吹く主も無く、辺りには寂寞の臭いが漂っている。
父は、酒には目がなかった。とりわけ宴席で興が乗り饒舌になった時に必ず歌ったのが、十八番(おはこ)の黒田節(くろだぶし)であった。自ら手拍子を取りながら、甲高い声で朗々と歌い上げていたものだ。
父の最後の黒田節を聴いたのは、確か、父の金婚式の祝いの席だったと思う。大勢の孫・子に囲まれて、母と共に随分と幸せそうであった。宴もたけなわの頃、とりは、やはり父の十八番の黒田節であった。
そんな父と私に辛い日が訪れた。金婚式から僅か2カ月足らずの師走のある日。私は、父にガンの告知をする羽目になった。
青天の霹靂(へきれき)とも言える、思いも掛けぬガンの告知にじっと聞き入る父の表情は、意外にも冷静であった。その時、父の姿は、まさに古武士然(こぶしぜん)としていたことが、今でも私の脳裏に焼き付いている。
父の闘病生活は、壮絶で筆舌に尽くしがたいものであった。しかし、父は、日増しに弱っていきながらも、時折、母に内緒で大好きな酒を飲んでいた。
そんなある日、父はとうとう母に見つけられてしまった。
「お父さん、お酒なんかダメよー!」
と母に一喝されて、ばつの悪そうな顔をしていたことがあった。
私は、そんな父の気持ちを慮(おもんばか)って、それまで気にもとめなかった父の誕生日に、ささやかなプレゼントをした。父の十八番の黒田節のカラオケ入りカセットテープである。
♪酒は飲め飲め 飲むならばー・・・日(ひ)の本一(もといち)のこの槍を・・・これぞ誠の黒田節♪
伴奏は、尺八、琴、三味線、鳴り物入りの正調黒田節だ。
その時父は、そのテープを私から無言のままに受け取った。そしてとうとう、そのテープをただの一度も聴くこともなく逝ってしまった。
父の死後、ついぞ父の故郷・長崎を訪れたことの無い私は、望郷の念にかられた。
それと知った従姉が、ある日突然、父の戸籍謄本を私に送ってよこしたのだ。紐で綴じられた謄本には、達者な草書字体の筆跡で、父の家系が記されていた。その中の戸主の右端に「士族」の二文字を見出した時、私は、初めて父の祖先が武士であることを知った。
ふとその時、私は、父の十八番が黒田節であったことに、なんとなく合点が行ったのである・・・。
冬至間近の師走の夜、私は、父の形見の尺八をぼんやりと眺めながら、黒田節が妙に懐かしくなった。そして、父がとうとう一度も聴くことのなかった黒田節のテープを何度も繰り返し聴いて、在りし日の父の姿に思いを巡らした。
黒田節
酒は飲め飲め 飲むならば
日の本一の この槍を
飲みとるほどに 飲むならば
これぞ真(まこと)の 黒田武士(くろだぶし)
峰の嵐か 松風か
尋ぬる人の 琴の音(ね)か
駒ひきとめて 立ちよれば
爪音高き 想夫恋(そうふれん)
■ 雲海のかなたに: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
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高橋幸夫(たかはし・ゆきお)
1947年、東京生まれ。68年、東京都立航空工業高等専門学校機械工学科卒。同年小松製作所入社、海外事業本部配属。78~83年、現地法人小松シンガポールに出向駐在、販売促進業務全般に従事。この間、アセアン諸国、ミャンマー等に70回以上出張する。88~93年、本社広報宣伝部宣伝課長として国内外の広告宣伝業務全般及び70周年記念のCIプロジェクト事業の事務局として事業企画の立案・推進実行に従事。欧米出張多数。93年、コマツのグループ子会社に出向。98年、早期定年退職制度に従い退職。2006年、柏市臨時職員、柏市介護予防センター「ほのぼのプラザますお」のボランテイアコーデイネータ。07年、天に召される。