「あら、泥だらけの大根、どうしたの?」「いやあ、散歩していたらさ、畑でね、農家の人に貰っちゃったのさ。あーあ、疲れた!」「・・・・・・」。私の片手にぶら下がった一本の泥付き大根を目にした家内は、少々驚きの色を見せながらも、喜びの表情を隠せないでいた。
最近、天候不順でしかも台風が多く、巷では野菜が高騰している。それで、家内はスーパーに買い物に行く度に音を上げていた。
実はこの日、台風一過の清々しい朝、私は久しぶりに散歩に出かけたのである。林を渡ってくる風はあくまでも爽やかで、木々の梢の間からは、いつにも増して野鳥のさえずりが賑やかに聞こえてきた。
沼のほとりの畑では、見知らぬ農家の夫婦が、額に汗しながら大根堀をしていた。心なしか頬を紅潮させて、ひたすら大根を引き抜いては、道端の軽トラックに積み込んでいた。
「こんにちはー!」と私が気軽に声を掛けると、ハッとして顔を上げた奥さんが、私を見て何を思ったのか、「旦那さーん、手伝ってー、お願―い!」と悲鳴に近い声を発した。理由を尋ねると、大根が品不足のために、近くの産地直売の市場から納品を急かされている、と言う。かなり焦っている様子だ。私は、快く引き受けることにした。
秋だというのに手伝い始めてから5分もしないうちに、額から汗がしたたり落ちてきた。農作業の過酷さを思い知った瞬間である。一方で、二人は相も変わらず黙々と慣れた手つきで、大根を地面から引き抜いて矢継ぎ早に軽トラックに積み込んでいる。
やがて、荷台が満載になり、タイヤが無惨にもぺちゃんこになって、パンク寸前だ。「かあちゃん、もうこれ位で良いだろう?」「旦那さん、ご苦労さん。疲れたでしょう。お陰で助かったわー」「とんでもない、こちらこそ久しぶりに良い汗をかかせて貰いましたよ」。実際、近頃運動不足気味であった私は、思いもかけぬ肉体労働の機会に恵まれたのだ。
すると奥さんが、にこにこしながら、「これ、持ってってー!」と、私に泥付き大根を一本差し出した。ふとその瞬間、家内の愚痴をこぼす姿が脳裏をかすめた。「最近、大根が高くてねー、困るわー!」。そうだ、こりゃあ良い土産が出来た、と疲れも忘れてルンルン気分で家路についた。
ところが、あに図らんや、道すがら行き交う人たちが、泥付き大根を片手にぶら下げた私に冷たい視線を投げかけてきたのであった。そこで、とうとう聞かれもしないのに、「いやあ、もう、穫りたての大根貰っちゃって・・・」と、言い訳をしながら急ぎ足で帰って来たのである。
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高橋幸夫(たかはし・ゆきお)
1947年、東京生まれ。68年、東京都立航空工業高等専門学校機械工学科卒。同年小松製作所入社、海外事業本部配属。78~83年、現地法人小松シンガポールに出向駐在、販売促進業務全般に従事。この間、アセアン諸国、ミャンマー等に70回以上出張する。88~93年、本社広報宣伝部宣伝課長として国内外の広告宣伝業務全般及び70周年記念のCIプロジェクト事業の事務局として事業企画の立案・推進実行に従事。欧米出張多数。93年、コマツのグループ子会社に出向。98年、早期定年退職制度に従い退職。2006年、柏市臨時職員、柏市介護予防センター「ほのぼのプラザますお」のボランテイアコーデイネータ。07年、天に召される。