記憶と記録。1955年3月22日、聖書を初めて読み、キリスト信仰へ導かれて以来、これは一貫して私の課題です。
この4月から、インターネット新聞・クリスチャントゥデイの働きに直接参与することにより、記憶についてますます思い巡らすことが多くなりました。また記録は、まさに日常的に直面している営みです。この時点で、今まで記憶と記録について思索し書いてきた事々を回顧し、今直面している課題を確認し、これからの歩みに対して、それなりの展望を確認したいのです。その柱は、徹底的な聖霊(ご自身)信仰と徹底的な聖書信仰です。
記憶について、初めて自覚的に思索したのは、1958年日本クリスチャン・カレッジ1年生のとき、心理学のレポート「ヨハネによる福音書十四章26節の理解」(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』214頁以下)を書いた際です。
その後留学中、ヨハネ14章26節については、ゴードン神学院でも、またハーバートでも思索の対象であり、その結果を直接、間接に書く機会がありました。
さらに帰国後、上智で学ぶ機会が開かれた際も、新しい側面を含め聖書を読み続け、思索を継続し、「ヨハネの福音書十五章26-27節の一考察―『あかし』、『記憶』及び主の晩餐との結びを中心として―」(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』)をまとめました。そして、今後があります。
1955年以来、記録された神のことば・聖書を読み続ける歩みで、徹底的な聖書信仰の根底として、記録の課題がありました。また書き続け生きて来た者の一人として、記録・書くことは、ほとんどからだの一部です。そして今後です。(続く)
(文・宮村武夫)