クリスチャンの社会的使命
(1)私たちとこの世
主イエス・キリストは弟子たちをこの世に派遣されるとき、「その町の病人を直し(=社会的使命)、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい(=宣教)」(ルカ10:9)と命じられました。神の国の福音は、社会的使命とみことばの宣教が同伴し、補い合って初めて完成するものです。いのちの軽視と性的乱れの時代です。そして、いのちと性の尊厳と秩序を知る者も、荒れ狂う時代の波に翻弄され、あるいは洗脳され、またはまひしている傾向があります。あるいはそれらを、切実な社会的問題としてとらえるよりも、個人的な問題としてとらえ、あるいは自分と関係ない事柄として、この崩壊寸前の社会問題に目をつむる傾向があります。
あるいは、社会全体を飲み込もうとしているこの社会問題に対決することを恐れ、埋没することを杞憂(きゆう)して、意識的に遊離しようとしているのでしょうか。主は弟子たちをこの世に派遣されるとき、「オオカミの所に遣わす」と言われたのです(ルカ10:3)。
(2)ミッションとは
一般的に言って、わが国では、「伝道」と「社会的責任」を二元論的にとらえて、「教会の使命は、個々の魂を救うための伝道である」という考えが主流を占めていたようです。それは「ミッション=MISSION」という意味が、「みことばをのべ伝える宣教」という面だけで理解し強調されて、「世に遣わされた者」という、もう一面がとらえられていなかったからだと思います。
しかし、18、19世紀のヨーロッパやアメリカでは、福音主義キリスト教は、社会改革において主役を務めています。例えば、イギリスのジョン・ウエスレーやウィリアム・ウィルバフォースは、共に福音的信仰に立った社会改良運動推進者です。
ウエスレーは偉大な伝道者であったばかりではなく、当時のイギリスに新しい社会的意識を生み出すことに大いに貢献した社会的正義の預言者でした。またウィルバフォースは、1807年に奴隷売買が廃止され1833年に奴隷密売に終止符を打った奴隷解放の実現に、決定的な功績を残しています。19世紀のアメリカにおいても、反奴隷制勢力の大多数がチャールズ・フィニーの海外伝道によるリバイバルでの回心者でした。
近代オランダの首相にもなった神学者アブラハム・カイパーは、生活の全領域に神の主権を認め、聖書の規範性に立って、政治・社会改革、教育改革を断行しました。そしてそれはオランダ改革派教会のリバイバルの実であり、オランダ史とオランダ教会史に深く刻まれています。
(3)日本の教会とミッション
ところが日本の福音的教会の多くは、自由主義神学や世俗主義に対抗して起こった20世紀のアメリカ・ファンダメンタリズム(根本主義)を源流としているため、社会的責任が、ある意味で見失われているように思われます。
しかし、こうした状況の中で、1974年にスイスのローザンヌで歴史的な「世界伝道会議」が開かれ、150カ国から集まった2700人の参加者によって、「伝道と社会的責任」は互いに相容れないものと見なしてきたことを反省し、この二つは完全に「キリスト者の責任と使命」であることを確認したのです。
私たち日本の教会も、このグローバルな時代に、聖書の視点にはっきりと立って、伝道と社会的責任を車の両輪とし統合したトータルなミッション観(伝道と社会的責任の統合・この世にみことばの宣教の使命と社会的責任を同伴して遣わされる使命感)をもって世に遣わされ、ダイナミックな信仰によってこの世と対決しながら、この世のあらゆるニーズに応える福音に生きるキリスト者として、みことばに生き生かされ、社会的責任と使命を果たしていくクリスチャンでなければならないのです。クリスチャンの、そして教会の、この世に対する存在意義がここにあります。
(4)聖書の愛の実践
教会に大宣教命令を与えられた主は、「福音の告知(ケリュグマ)」と「交わり(コイノニア)」と「奉仕(ディアコニア=教会的奉仕と社会的奉仕)」を携えて世に遣わされていくトータルな伝道を求められているのです。
「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と命じられた主ご自身も世に出て同じようにされたのです。主の御声を聞き、主の愛を実践するのです。聖書の愛の実践です。世の罪の中から救われた恵みへの感謝が、私たちをこの世に押し出します。主のごとく生きたい情熱が、私たちを社会的責任と使命に導き、この世の現実を知れば知るほど、私たちを福音の告知と交わりと社会奉仕へと駆り立てるのです。主への愛、この世への愛は、そうせざるをえない愛となって、行動を起こすのです。
主の派遣は、特殊な一部の人のものではありません。神の民として、キリストの市民として、すべての人に与えられている本質的な自覚です。特権です。情熱です。
今こそ、教会の出番です。主はキリスト者に期待されています。そして社会も、うめきながら、教会に期待しているのです。神のみこころを、私たちを通してこの地に具現するのです。それがクリスチャンです。神の器です。
単なる人間的なヒューマニスティックな次元ではなく、神への愛と人々への愛、そしてこの世に対する神の裁きと滅びゆく者に対して今日も流されているイエスの愛と涙が、私たちクリスチャンを社会的責任と使命に駆り立てるのです。この世の現実に遣わされるのです。
■ 小さないのちと私たち~あなたに逢えてありがとう~: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)
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辻岡健象(つじおか・けんぞう)
1933年生まれ。大学卒業後、7年間ビジネスマンとして実業界で活躍。神学校卒業後、20数年間牧師として奉仕。現在、いのちの尊厳を標榜し全国に3000人余の会員を有する「小さないのちを守る会」代表。特に現代のいのちの軽視と性の乱れに痛みをおぼえ戦いながら、中・高・大学、PTA、教育委員会、公民館、病院、ロータリークラブ、VIP、教会、各キャンプ等で講演活動。新聞雑誌等に寄稿し、テレビにも出演して現代社会における「いのちと性」のあり方について訴える。未婚女性妊娠問題等にも具体的な援助。中学・高校教員免許資格取得。教育学博士。著書に『小さな鼓動のメッセージ』他。趣味はスキー、マジック、腹話術。
■ 外部リンク:「小さないのちを守る会」ホームページ