「本土の牧師たちは沖縄を捨てた」
「本土出身の牧師たちは、沖縄戦を前にして沖縄と沖縄の教会を捨てて逃げた」という日本の教会に対する批判が、70年経とうとしている今も沖縄の教会に根強くある。この言葉を耳にするといつも心が痛む。
私も沖縄に赴任する前は、何度も沖縄の教会の人々から聞かされた。かつて沖縄と沖縄の教会に訪問した時、心に残ったのは日本の加害であった。16世紀の薩摩侵略、明治維新の琉球処分、太平洋戦争の沖縄戦と集団強制自決、そして戦後と今日の基地問題。沖縄は日本に隷属のように痛みつけられ踏みにじられ、今もそれが根強く続いているということを聞いて、カナズチで頭を叩かれたような衝撃を受けた。
それ以上に、「沖縄戦が始まる前、沖縄で伝道していた日本の牧師たちのほとんどが日本に疎開して、沖縄戦の痛みと苦しみを住民と共にすることを避けた」ということを聞いた(実際は3名の沖縄出身の牧師が亡くなっているが、その他は日本人牧師と同じく疎開していたらしい)。それまでは日本の教会に期待していたためか、このことから沖縄の牧師以上に信徒たちが「日本の教会に失望を抱き始めた」ということを知った。私もその時沖縄で伝道していたならば、当たり前のようにして日本に疎開するだろう、当然のこととしてその時代の牧師と同じく沖縄の教会に失望をもたらすだろうと想像して愕然とした。それ以来、戦争前に沖縄から離れた牧師と私自身が二重写しになって、沖縄の教会を考えるたびにその思いから避けたいという気持ちに誘われていた。
そんな中で、日本キリスト教会大会伝道局長が私のところに来て「沖縄で宣教していただきたい」と言われた。当時務めている教会の間で板挟みになって葛藤したが、その言葉が神の言葉のようにして私を捉え、やがて決意に至らせた。
沖縄伝道を考える時、私の尊敬する牧師に服部団次郎がいる。彼は東京神学社を卒業して、1933(昭和8)年那覇教会の牧師となり、1935年名護に伝道し、沖縄救癩協会を設立した。
1944年、10・10大空襲以後、日本軍の命令で日本人と多くの沖縄の人々が本土に疎開した中に、服部団次郎も疎開者の引率者として九州へ疎開した。彼は著書『沖縄から筑豊へ』の中で、筑豊の人になっていく自分の心の動きを語っている。「沖縄の玉翠ということは、これからもなお果てしなく続くであろう(沖縄の)苦難の道を思うとき、どうして私が一人安易の道を選ぶことができよう。これからどのような道を選ぶにせよ、沖縄の人々との苦難に連帯するという、そこから逃避してはならない。そのような思いに駆られて、ついに、筑豊の炭鉱夫となることを決心するに至った」という。
「服部牧師は、日本軍の沖縄布陣、教会建物の接収という非常事態の中で、これまでの仕事を継続することが困難となり沖縄を去った。疎開先の九州での彼の胸のなかには、戦火の中に自分が残してきた教会や、ハンセン病患者たちのことが激しくあったに違いない。戦争直後の沖縄の教会には牧師がほとんどおらず、生き延びた僅かの信徒たちを中心として戦後教会史がつづられていったことを説明する中で、『本土出身の牧師たちは、沖縄とその教会を捨てて逃げてしまった』という批判が、彼の心の奥に沖縄コンプレックスとして潜んでいたに違いない。彼は『自分自身としてもまず地の底から再出発するということの中に、沖縄につながる本当の生き方を見出すことができるのではないだろうか、とそう思うようになった』とも書いている。貧困と窮乏と激しい労働の中で愛児2名を病気で失ったほどの炭鉱夫生活は、服部牧師にとっては沖縄へのお詫びの生活であったと解釈していいのかも知れない」(『この後の者にも 連帯と尊厳を ある炭鉱伝道者の半生』の巻末「服部団次郎牧師に寄せて 平良修記」)
これが、彼の精一杯神に誠実に従おうとする姿勢であったのであろう。彼の痛みはよくわかるが、私自身、彼の生き方には足元にも及ばない。
1969年10月、第19回日本キリスト教会大会で、「沖縄県開拓伝道推進に関する建議案」が可決された。その理由は「沖縄県の同胞に対する負い目を果たすために、沖縄開拓伝道を開始することを建議する」とある。
「沖縄伝道とは、幾世紀にも渡って積み重ねられた罪責と沖縄の苦しみを担うものである。沖縄伝道は、教勢伸展の有望な市場開拓ではなく、出血してこそ沖縄伝道の意味がある。・・・沖縄は(占領地米国と米国策に乗じた宣教師によって)、キリスト教に対する誤解や反感も少なくない。・・・キリストをかしらとした真実な教会形成の志をもって伝道を進めることだ」(渡辺信夫)。「日本の教会は、今よりももっと早く沖縄の主にある友らとの交わりを回復すべきであった。戦争末期の事情を考えれば責任でもあったはずである。1972年(日本復帰)を間近にして、今こそこの時を外しては、彼の地の兄弟に対して申し訳ないのみならず、過去において教会に仕えた先輩に対してもまことに恥ずかしいことと思わざるを得ない。沖縄開拓伝道にあたって第一に考えることは、使命を負う伝道者である。沖縄の人々は誠実であるため、伝道者がどんな志を持っているかを判断する能力を備えている。ヤマトではごまかしがきくが、ウチナーではごまかしがきかない。そのために、職業的な伝道者、一時の腰掛け的な説教者には御言葉を聞こうとしないであろう」(藤田治芽)と、出発時に語られた。
よく言われることは、「日本の神学校を卒業して沖縄で伝道しても、使いものにならない」。「日本の教会で成功を収めて教勢を上げた牧師であっても、沖縄では全く歯が立たない」と沖縄出身の牧師が語る。「沖縄をいつまでも国内植民地の上に立って、その目で見ているからだ」という。自らを低くして、沖縄の人々と同じ視点から沖縄を見るという自覚が足りないからであろう。沖縄の伝道とは、何世紀にも渡って積み重ねられた沖縄に対する日本の罪を償うキリストの十字架を担う教会を形成することであるからだ。
沖縄では「解放の神学」が叫ばれている。民族の苦しみからの解放としての「解放の神学」ではない。神の主権のもとにある「解放の神学」である。沖縄で教会が自立することは、沖縄の自立を根底から支えるようになることを信じる。同時にこのことは、天皇とアメリカに隷属している日本国家と日本人の自立を促すものである。さらに東アジア共同体の中心的な役割も沖縄にある。その風穴をあける鍵が沖縄にある。
沖縄が差別され痛みつけられ苦しみに遭うほど、運命でではなく摂理として働かれる神は、沖縄を苦しみのままにして置くことをなされない。死からよみがえられた主イエスは、差別を受けて踏みにじられるほどに、踏みにじられた者の光を宝石のように増させるであろう。それは、平和を造り出すという行為であり、人権を回復するという光を世界に向けて輝かすことである。沖縄にキリストの教会があることは、日本と日本の教会全体が益になることに資するものであるべきだからである。
パウロは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ…たのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ロマ4:17、18)と語る。沖縄で伝道するとき、この言葉ほど励みになるものはない。沖縄の教会の現状を見て判断するのではない。アブラハムは神の祝福の言葉を受けて、実際は、子どもの生まれない夫妻の間で一人だけ子どもが与えられて、地上を去った。そこを見て行きたい。
■ 沖縄における植民者としての日本人と私:(1)(2)(3)(4)(5)
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川越弘(かわごし・ひろし)
1945年石川県生まれ。日本キリスト教会沖縄伝道所牧師。日本キリスト教会靖国神社問題特別委員。