罪ある人間に価値があるかどうかという、大前提的なあるいは神学的な問題がある。でも99匹の羊がいても一匹の失われた羊を見つけるまで探すというイエスの話や、人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうかという教えなど、聖書を総合的に見れば、Total Depravity(全的堕落)という事実があったとしても、人の価値そのものは失われていない。VIP International Club という働きは、まさにひとりひとりの価値を認めるところから始まっており、私たち夫婦もその活動の一責任を負っている。
人間の罪性と価値は同一ではない。イエスと一緒に十字架に掛けられた極悪犯罪者のひとりが、最後の最後に天国行きの約束を得られたのも、犯した罪とは別に彼自身にそれだけの価値があったからだ。罪が許された時に価値が回復されたのではなく、罪が許されるだけの価値が最初からあったのだ。これは全ての人に当てはまる。
人間社会は、社会的貢献度で人の価値を決める傾向がある。人は、政治家・医者・弁護士・教授というだけで、自動的に「先生」という称号をもらい、それなりに尊敬される。会社でも、平社員は上司の価値の方が高いと認めなければならない。この事実を裏返せば、社会的貢献度が低い人の価値は低いということになってしまう。会社もリストラのために給料に見合う貢献度のない人の首を切り、ある程度の年令になると自動的に辞めてもらう仕組みになっている。諸々の理由で経済力を失し路上生活を強いられている人たちは、人の価値を知らない若者により命まで狙われることがある。
病気の人や障害を負っている人の価値はどうだろう。私の高齢の母は植物人間になってしまった。彼らは価値を失ってしまったのだろうか。社会的貢献度を100%失った人は死んでしまった人だ。でも死人に対する天国への約束は、貢献度ゼロになってしまった人の価値の表明である。もし死んだ人が永遠に生きる価値があるのなら、生きているだけで家族に喜びを与える社会的弱者の価値がなくなるはずがない。聖書では最も弱いと思われている人たちは、実はイエスと同じ価値であることが明言されている。なぜならイエスご自身が「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とおっしゃっておられるからだ。弟子たちが見下した盲人は、その存在と彼の身に起こるすべてのことが神の栄光を表すほどの価値があるとイエスは言われた。
人は、神の被造物であるという事実だけで価値があり、その価値は、何があっても失われない。被造物の価値は経済的価値だけではない。存在そのものに価値がある。人の場合、永遠に生きるだけの価値がある。もし人間ひとりひとりに無条件的価値があることを認めるなら、いじめも自殺もあるいは弱者抹殺のための殺人も起こらないはずだ。またある特定な人物を尊び、社会的弱者を軽蔑することもなくなるだろう。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。