「海中時計」を知っているかい? 夏のキャンプで、九十九里浜一ノ宮海岸で泳いだ時、一人の高校生が海で時計をなくしたということだった。ベルトが切れて水の中で見失ってしまったんだって。気の毒に思って次の日、海水浴のために集合したとき彼に話しかけると、ひょうきんな生徒で、「でもあの時計、完全防水だから大丈夫です」「大丈夫って言ったって海の中でしょ?」。彼は更に続けた。「それに、あの時計の電池はまだ3年持つし・・・」。思わず笑ってしまった。
気の毒な彼は脇において、時計の行方を想像してみよう。波にもまれて沖のほうに行ったり、浜辺近くに流れてきたりすることもあるかもしれない。そもそも時計というものは、僕たちが身近に置いて時刻を知りたいとき、何べんでも見て使うために作られた物だ。その時計がいくら完全防水で水の中にあっても、狂いもなくなんの支障もなく正しい時刻を指し続けていても、それを人が見なかったら、その時計は意味がないよね。「海中時計」は無意味な存在です。(今の高校生は「懐中時計」を見たことのない人がほとんどだということを覚えておこう・・・。)
意味のないことを思うと、昔シベリアの強制収容所で、思想犯や政治犯を対象にして課せられた拷問の話を読んだことがある。縄で縛って逆さに吊るし、鉄の鎖で叩くというような恐ろしいものじゃない。ただの作業だ。監督は高く盛り上げられた土の山を指して「これをあちらに運べ」と言う。もちろん道具もある。言われたとおり道具を使って何回も往復して土の山を運ぶ。夜になってその日の作業は終わり。次の日も朝から晩まで土運びの一日。ようやく全部運び終わって監督に「終わりました」と報告すると、監督は「ではその出来た新しい土の山を元の所に戻せ」と言う。「えーっ、なんで?」なんて質問は許されない。ただ従うだけだ。次の日も同じ。毎日これだけをやって1週間、2週間、3週間、1カ月、2カ月、いや1年でも2年でも、3年でも、はっきり言って一生涯これだけをさせられるのだ。させられた人はどうなるか。多くの人が発狂してしまうか、自殺してしまうそうだ。なぜ? していることに意味がないからだ。どんなに苦しい作業でも、その結果道が出来たり、川に橋が架かったりするなら、意味があるから耐えられる。人間、意味のないことには耐えられない。君の人生には意味があるのか?
今日は女子が多いね。女子に関係あることを話そうか。君たちもあと10年もすれば70%の人は結婚しているだろうね。1年か2年のうちに子どもが生まれるかもしれない。僕の妻の名前で呼びやすいから、康子と名付けよう。康子ちゃん、康子ちゃんと可愛がって育てるうちに年月は経って、康子ももう高校生。早いね。ある日のこと、忙しくしていて夕食の支度が遅くなったから、康子を呼んで手伝わせようと康子の部屋に行ってみると、さっきは帰ってきた音がしたのに、姿がない。どうしたのかなと捜し回ると、裏の豚小屋で声がする。今は豚小屋なんかないだろうけど、その時はあると思って聞いてほしい。残飯をやって一匹の豚を飼っているんだけど、のぞいてみると、豚の隣に人の姿が見える。なんと康子の姿だ。豚の隣に寝そべるようにして、豚の首に腕を回して豚に話しかけている。何を言っているのかと耳を澄ますと、「お母さん。あたしお母さんのこと大好きだよ。今日作ってくれたお弁当、美味しかったよ。お母さん、ありがとう」。豚に向かって言っているんだよ。「もうじき母の日だね。感謝してプレゼントするね。ねえ、何がほしいか言ってよ。ねえ、言ってよ」と豚に言っているんだ。
君はどう感じるかしら? 「康子ももう高校生だ。自分の母親が誰だか、自分で決める時が来たのね。そして私は敗れたのだわ」と言って引き下がるかな。脇にいた人が、「康子はあなたの財布から万札をこっそり盗み出したの?」と聞くから、「いや、そんなことしたことがない」。「じゃ夜中に金属バットで『このくそババア』と言って殴ったことがあったの?」「いや、そんなことしなかった」と言うと、「それじゃ、康子のしている事は、誰をお母さんと呼ぶかで、いわば見解の相違に過ぎないわけだ。ここは大きな心で静かに見逃してあげるべきだと思うけど」と言われて引き下がるかしら? そうじゃないよね。万札を盗んだよりも、金属バットよりも、絶対に許せないことがあるよね。当然康子の首をつかんで引き起こし、2、3回ビンタを張って「やすこ!何寝ぼけてんの。あれは豚。これがお母さん。あれは豚! お母さんはこちら。間違えちゃだめ、似てても・・・」。
私たちのしていることも、造り主の神様を拝まないで、別のものに崇拝を捧げているとすればこれと同じで、盗んだとか殺したとかよりも許しがたいことをしているのだ。
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吉枝隆邦(よしえだ・たかくに)
hi-b.a. (ハイビーエー、高校生聖書伝道協会)にて42年間働くも、突然脳梗塞で倒れ5カ月間入院。8カ月後には説教者として再起し、今も情熱を持って福音(神様からの良い知らせ)を語り続けている。