多くの高校の中に部活動としての聖書研究会が存在していた頃(1980年頃までか)、秋の文化祭では、全校生にも他校生にも積極的に証ができる良い機会だった。もちろんふだんもやったが、その時は大々的にできる、一年に一度の機会だった。
まだ聖書研究会を持たない高校でも、その高校のクリスチャンたちは聖書研究会のある高校へ積極的に出かけていって、その証を手伝ったり討論に加わったりしていた。私たちも文化祭校友会の後の反省会で、「聖書研究会の部屋なんか、どこの学校の文化祭なのか分からない状態だったよ」と批判を浴びた。それでも、他の部とは違って時間終了ギリギリでもやって来る人に説明を続け、一人もないがしろにしなかったのは評判が良かった。特に企画に参加する部員にとっては、いくつかの課題を決めて取り組むわけであって、これが本人たちの良い勉強になった。
高校3年の時には、3つのテーマを取り上げた。一つ目は、福音の図解。二つ目は、預言とその成就。三つ目は、天地創造から世の終わりまでの歴史年表。これもさらに3部に分かれていて、その1番目は、聖書に書かれている歴史。2番目は、福音宣教の歴史。3番目は、聖書翻訳の歴史。
相談に行った教文館の人が紹介してくれた『言語生活』1971年9月号に日本語聖書の歴史が載せられていて興味深かったし、その発表の助けになった。だから、この3番目が前の2つに比べて分量もスペースも非常に大きなものになった。
その時見に来た大橋さんが、「これ僕の高校の文化祭に借りていいか」と言うので、喜んで貸した。
後日その高校に見に行ったところ、僕らは男子校で白い模造紙に書いただけだったのが、そこは男女共学だったので、その模造紙の周りにお花紙で作った白とピンクの花が飾ってあって、差をつけられた。またねたましい思いであった。
しかし、前年の高2の文化祭は寂しかった。部員は何人もいたにもかかわらず、他の部とのかけもちや校友会の連絡係が多く、実際に働けたのは僕ともう一人だけだった。
それでも、罪と福音を語ろうとして、警視庁に青少年犯罪の総計を調べに行ったりして、“人は罪びとだ”ということを強調した。悪友とか環境とかが青少年犯罪の大きな理由となっていると知って、集会で教わっている通り、“あなたが罪びとだ”ということを強調しようとした。
底に鏡を入れた箱を置いて、「覗くと罪びとの顔が見えます」と書いた。それで、覗くと本人の顔が見えるようにした。でも、覗いた人は、「フフン」という程度の反応だった。
その他に、映画の上映も提供した。その時代によく用いられたムーディー科学映画だが、映画は学校から図書館でやること、そして、14、5人の図書館警備員を出せと言われ、中高一貫校だったので、その辺にいた中学生にキャラメルをやってどうにか集めて間に合わせた。自分たちはこの上映会に出たので、展示の方の教室は無人となり、ご自由にお取りくださいと書いて積み上げておいたトラクト(福音文書)は、戻ってみると全部無くなっていた。喜んでいると、それは甘かった。
次の日、授業のために席に着くと、机の中に何かが詰まっていた。出してみると、それは半分に破いて丸めたトラクトだった。しかも、ギューギューに詰め込んであった。誰がやったか全然わからない。本当にがっかりしてやる気を失いかけたとき、集会で一つのみことばが与えられた。
「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)
むだにならないということがどのようにむだにならないか、そのときは分からなかったけど、そのみことばを信じてやっていこうという心が与えられた。
次の高校3年になった春、学校の聖書研究会に関係なく導かれた同期の宮村君と知り合い、一緒にやっていこうということになった。
5月に伝道会をした。僕らにとっては後継ぎの高2、高1が導かれることを願っていたが、そのときイエス様を信じる決心をしたのは7、8人の中学2年生だった。その人たちの中に後に導かれて、OMFの宣教師となった牧野直之さん、牧師になった吉田鋼志さん、青木亮一さん、大学生伝道に携わった太田和功一さんなどがいる。
この頃は、宣教師が英語で聖書を教えますというと、なまの英語を聞く機会をただで与えられることを喜んだ学校側は、そのような聖書研究会をつくることを許した。その意味では、今は時代が変わった。新しいやり方で学校の中に食い込んでいかなければ。
◇
吉枝隆邦(よしえだ・たかくに)
hi-b.a. (ハイビーエー、高校生聖書伝道協会)にて42年間働くも、突然脳梗塞で倒れ5カ月間入院。8カ月後には説教者として再起し、今も情熱を持って福音(神様からの良い知らせ)を語り続けている。