「欲望」ということばにはネガティブな響きがある。聖書ではさらに悪い意味として「肉欲」ということばが使われている。では「欲しがる」という気持ちそのものは罪なのだろうか。モーセの十戒の最後に「欲しがってはならない」という命令が2度も出てくる(出エジプト20:17)所を見ると、「欲しがる」こと自体、神の戒めに反する印象を受ける。
現実問題として、我々は常に色々な物を欲しながら生きている。個人的に必要な物や、家庭、教会、会社そして地域社会として欲しいものがたくさんある。金銭的欲望や物質的欲望だけでなく、健康や社会的地位、そして人からの尊敬・信頼も欲しいと思っている。欲しい物のリストを作れと言われたら、限りがないだろう。
では聖書では、「欲しがる」ことがどのように位置づけられているのだろうか。「欲しがる」という動詞は心の状態を示す。「欲しがる」ことを行動に移す時、「求める」という動詞に変化する。マタイの福音書7:7に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」という有名なことばがあるように、聖書では「欲しがる」ことが罪であるとは言われていない。イエスが語られた数多くの御国のたとえ話には、むしろ求める人の勝利が描写されている。イエスに群がって来た人々も、病の癒やしを心から求めていた。
金銭欲や物質欲といったことばは、響きそのものは良くないが、具体的に表現すれば、良い仕事を求めたり、住み心地の良い住宅を求めたりすることと同じで、我々が何のとがめも感じることなく求めるものだ。では我々は、何を「欲しがって」はいけないのだろうか。モーセの十戒の最後を注意深く読むと、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」と書かれている。すなわち十戒では、「欲しがる」ことが禁止されているのではなく、隣人の所有物を欲しがることが禁じられているのだ。他人が受けるべきはずの物を欲しがることが「貪欲」と呼ばれるもので、神の掟に反する。
欲しがってはいけないもうひとつは、「偽善による人からの賞賛」である。イエスは偽善者パリサイ人に対し「すでに報いを受けてしまっている」ので、もはや「天にいます父から報いを受けることがない」と言われた(マタイの福音書6:1、2)。
モーセの十戒とイエスの教えから判断すると、「欲しがる」ことと「人のものを欲しがる」ことには大きな違いがある。後者は禁止されており、前者はむしろ薦められている。我々は良いことのために、また神の栄光を表すために、積極的に「欲しがり」また「求める」べきではないだろうか。全ては神の一方的な恵みにより提供されているからだ。罪人ですら、子どもには良い物を与える。神は、はるかに優れたものを用意して下さっているはずだ。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。