「お金で買えるもの・買えないもの」の本質を吟味しないと、「お金=悪」という概念を持つ危険性がある。
世の中には何でもお金で解決しようとする人たちがいる。「金信仰」の人は友情すらお金で買う。でも有名な放蕩息子の話のように、お金が底をついたとき、自分の周りから誰もいなくなってしまう。お金は決して万能ではない。お金で解決できないものは世の中に多くある。施しを求めて宮の入り口に座っていた足のきかない男に対して、使徒ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒の働き3:6)と言って癒やしの奇跡を行ったが、これはお金の無能さを示す典型例である。
でも、「お金では買えないものがある=お金に頼ることは罪」とはならない。なぜなら、「お金で買えない物」の特質と、「お金」の特質が明確であるからだ。まずお金の特質は、価値の交換を自由にまたスムーズに行わせることだ。お金があると、必要な物を手に入れるために別の物を在庫として持っておく必要が無い。「物々交換」の時代は、在庫が絶対的に必要だった。その問題を解消するためにお金が発明された。今はもっと便利で、札とか硬貨を持たなくても、通帳の数字だけで、しかもパソコンのキーをたたくだけで物が買えてしまう。
お金で買えない物は、大きく分けて次の2つがある。(1)人間の英知では造り出すことができない物。たとえば魚や野菜あるいは鉱物などは、お金では買えない。だから人類に無償で提供され、そこから経済的価値の循環が始まる。水や空気もお金では買えない。今は水を買う時代だが、売る人は無償で手にしているはずである。(2)人間関係と愛。子どもの誕生日に高価なプレゼントを買ってあげたとき、子どもがお小遣いの中からその代金を親に支払おうとしたら、それを喜ぶ親がいるだろうか? 愛は決して金額に換算できないのだ。人の存在そのものも、お金では買えない。奴隷制度が廃止され、また人身売買が法律で禁止されているのも、人間は売買の対象ではないからだ。貧しい国に子どもの数が多いのは、子どもを得るのにお金がかからないからだ。昔理解に苦しんだことがある。それは「不倫」をしても法律的には罪に定められないのに、ちょっとでもお金のやり取りがあると「売春」のかどで逮捕されてしまう。同じ行為なのに。でも「愛はコミットメントであって数字ではない」という見地から考えると、同じ悪事でも、「不倫」の方は愛の行為に値段がなく、コミットメントで成り立っている一方、「売春」の方には互いのコミットメントはなく値段のみがある。お金そのものは悪くなくても、愛は売買の対象ではないので、「売春」は犯罪となる。でも「お金で買うことができない物がある」=「お金は悪」とは決してならない。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。