昨年4月から小紙の働きに参加し、2年目の後半を迎えています。今あらためて、時・時間の基本理解を確認する必要を覚えます。特に、「聖書をメガネに」と提唱し続けているのですから、聖書に見る時・時間について、私なりの基本理解を明らかにする責任があります。
この目的のため、詩篇31篇14、15節前半が大切な手掛かりを与えてくれます。
「【主】よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。
『あなたこそ私の神です。』
私の時は、御手の中にあります」
詩篇の記者は、自分の時・時間は、天地の創造者、つまり自分を母の胎の内につくられた方の手の中で、大切に守り導かれていると深く自覚し表現しています。時・時間の人格的受け止め方こそ、「自分の日を正しく数える」(詩篇90:12)基盤です。
聖書全体を、この時・時間が一貫して流れている事実を私なりにはっきり実感したのは、イサクの妻リベカのための祈りの記述「イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった」(創世記25:21)を通してです。
この節の前後に、結婚はイサクが40歳の時、そして双子の誕生は60歳の時だったと明記されています。一節で描くイサクの祈りの成就に20年近い、私たちが経験すると全く同じ時間が経過していたのです。そうです、聖書の記述と私たちの生活と生涯の中には同じ時間が流れており、両者を重ね読みできるのです。(続く)
(文・宮村武夫)
■ 時は、御手の中に:(1)(2)
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