記者やコラムニストの書き手と、読み手である読者の両者があって初めて、クリスチャントゥデイが成り立つ事実は、今までもそれなりに承知していました。
しかし、このたび、上智大学キリスト教文化研究所編『日本における聖書翻訳の歩み』の4番目の論考、山浦玄嗣医師の「ケセン語訳聖書からセケン語訳聖書へ」を、時間をかけて一気に読み通しながら、少し大げさに表現すれば、「今、最も重要な節目を通過しつつある」と実感したのです。山浦医師の読み手への徹底的なこだわりと配慮の姿勢に触れ、クリスチャントゥデイにおける読者の位置が抜き差しならぬものである事実があらためて浮かび上がってきました。
新約聖書の書簡理解において、書き手であるパウロに注目すると同時に受取人である教会や個人に意を注ぐことがいかに重要であるか提唱し、授業を続け、著作を書き続けてきました。同様に、説教者としての自らの上に、聖霊ご自身の導きを求めると同時に、説教の聞き手である会衆の上に、同じく豊かな聖霊ご自身の導きを祈り続けてきました。こうした今までの経験がこの段階で役立ちます。
書簡の受け取り手の必要を徹底的に理解し、それにパウロは答えて書簡を書いているのであって、自らが言いたいことや書きたいことを書いているのではない。説教も、会衆に伝えられたメッセージが、会衆の心、生活と生涯にどのように刻まれ、どのように実を結ぶかを離れては、説教は語られたことにはならない。では、クリスチャントゥデイの場合はどうか。(続く)
(文・宮村武夫)