「クリスチャントゥデイにおける読者の位置」との課題を、続けて考えます。
あらためてクリスチャントゥデイは非人格的存在・組織である事実を、明確に認識する必要があります。人格を非人格的存在のため利用したり、犠牲を強いたりしてはならい。これは、私なりの長年の確信であり、その確信に従い生きて来ました(マルコ2:27、28参照)。そうです、人格である読者を、いかなる意味でも利用し、目的の手段としてはいけない。これはクリスチャントゥデイの原点です。
例えば、読者を購読数の数としてのみ見ない。かけがえのない人格的存在である事実を軽視、まして無視することは許されない。さらに、クリスチャントゥデイの取材の名のもとに、尊い人格である取材対象者を取材のために利用する存在としてのみ見なすなど許されないのです。
ですから、「クリスチャントゥデイにおける読者の位置」とは、記事を書く人格的存在である記者と、同じく人格的存在である記事を読む読者の人格的関係をどう考えるかの課題です。私たちの存在に深く関わる読み、書く行為が、記者と読者を結び付けています。記事を通して、目には見えない、しかし確かな出会いの出来事が生じるのです。
この出会いの出来事こそ、クリスチャントゥデイの実態であり、読者は正に不可欠な役割を果たしています。この出来事の起爆剤また継続的支えは、どこかからか注がれる経済的援助・金ではない。記者の個人的生活における読みに読み、書きに書く営みです。また、読者各自が記事に自分の目と心を注ぐ読みの一事です。(続く)
(文・宮村武夫)