イエス・キリスト②
昔、イスラエルの人たちは、羊を殺すことで、自分の罪を取っていただこうとしました。羊が身代わりになったわけですが、本当は、羊で罪は消えませんでした。ところが、イエス様は私たちの本当の身代わりになってくださいました。ですから、イエス様は、私たちの罪を取り除く本物の羊ということになります。イエス様は十字架の上で私たちの身代わりとなって死ぬことで、「私」の罪だけでなく、全世界の人たちの罪を処分してくださいました。本当は、神様の裁きを受けて死ぬはずだった「私」は、イエス様に「私の罪をお赦(ゆる)しください」とお願いするだけでいいのです。そうすれば、イエス様が全部引き受けてくださいますので、私たちは自分の罪のために死刑になることもなく、神様の前に出られるようになるのです。逆に、自分には罪はないと言い張る人は、イエス様にお願いしませんので、罪のあるまま死ぬことになり、神様の前に出られません。
罪の遺伝子を持って生まれた人間に、神様の遺伝子を組み換え(入れ換え)たことによって、私たちは罪のない遺伝子を持つことができるようになりました。十字架の身代わりによって、神様の遺伝子が入ってきたことになります。ですから、前にも言ったように、この遺伝子は別の人間の遺伝子では役に立たないのであって、神様の遺伝子だからこそ役に立つのです。イエス様は神様ですから、イエス様の遺伝子は、罪のない遺伝子だったのです。イエス様の処女降誕があって初めてこのことが可能になりました。これで、神様との交わりが回復しました。神様とようやく仲直りができ、神様にお会いしても死ななくてすむからだ、霊が与えられたのです。イエス様こそ、昔の人たちが長い間待っていたメシアだったのです。メシアというヘブル語をギリシア語に翻訳するとキリストとなります。ですから、キリスト教というのは、イエス様こそ待ちに待ったメシア、すなわちキリストだと信じる宗教だということになります。
キリスト教はだから、人間が考え出した宗教ではありません。人間を愛して愛してやまない神様が、聖いご自分に会うことができるように自分の一人息子を地球に送って、この一人息子(イエス様)を罪人である人間の身代わりにすることによって、人間と和解することができるように、神様が計画し、神様が実行してくださった宗教なのです。いくら人間を愛しても、罪人のままだったら聖い神様は受け入れることができないのですから、罪の始末をまずしなければならないわけですが、それをご自分の方で、ご自分の一人息子を犠牲にして実現させてくださったのです。
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浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。