神様は生きておいでです
偶像は、生きてはいません。お寺の仏像も稲荷神社の神の使いといわれる「狐」も、人間が作ったものですから生命はありません。木や土で作ったものです。ゴシゴシとのこぎりで木を切り、それにノミで彫刻をし、そして作り上げたものであって、削ったくずは燃して捨ててしまいます。形こそ違いますが、作り上げた像と削りくずは同じ木なのです(イザヤ44:16、17)。粘土で作ったのは、私たちが毎日踏みつけているそのへんの泥と全く同じものです。あの奈良の大仏だって、いくら大きくてもそれは金属の塊でしかありません。道ばたに落ちている金くずと同じです。仏教では、作った像に「魂を入れる」といって特別の行事をしますが、それだからといって、その像が突然動き出したという話を聞いたことはありません。火事になれば、誰かが外に持ち出さない限り自分では逃げ出せません。目があっても見えませんし、耳があっても聞こえませんので、私たちを見ることも、私たちの願いを聞くこともできません。千手観音といって、たくさんの手を持っている観音像もありますが、いくら手があっても、私たちを助けることはできません。
マリアさんの像を拝む人もいますが、本当はマリアさんも人間であって、神様ではありません。時々身代わりになった地蔵さんとか、血を流したり、涙を流したりしたマリアさんの像の話を聞くことがありますが、おそらくその大部分は何かの勘違いか、わざと仕組まれた物語でしょう。もちろん、世の中には私たちに理解できない不思議なことが起こることもあります。でも、注意していないと、それは神様の働きどころか、逆に神様から目をそらすために悪魔がやっている仕業かもしれません。
ところが本物の神様は、目には見えませんが生きておいでです。生命を持っておられます。だから、私たちのことを見守ってくださるし、私たちの願いを聞いてくださるのです。霊ですから私たちには見えませんが、ちゃんと私たちを見ることもでき、また私たちの願いを聞くこともできるのです。生命のない像にお願いしても、意味がありませんが、生きている神様にお願いすれば、必ず聞いていてくださいます。そして、聞くだけでなくて、応えてくださいます。
神様が生きておられるということは、神様は「初めから」おられた方であり、「終わりまで」おられる方だということです。永遠の昔から、永遠の未来まで続くお方です。天地ができた時には、もうすでにおられました。また、やがて天地が滅びても、その後も生きておられます。肉体を持った人間は、年を取るにしたがって、年相応に変化しますが、霊である神様は永遠から永遠まで変わらないお方なのです。
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浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。