明治39年(1906年)になると、救世軍の事業も広がり、労働紹介所、木賃宿「箱船屋」、学生寄宿舎、女中寄宿舎、救世軍料理屋、神戸水夫館など新しい事業が開始された。これらの事業は伝道と相まって社会に大きな感化を与えることになった。人々は、今や救世軍を全面的に理解し、信頼を寄せ、募金に対しても涙ぐましいほどの協力をしてくれた。キリスト教と無縁であり、貧しいその日暮らしの人々が、この時初めて異国から来た救世軍というものによって「博愛」を知り、社会に向けて目を開いたのである。その年の募金高は何と5470円にもなった。
軍平はこうした世間の温かな行為に対して、何か記念になる仕事をしたいと考えた。そこで、これから救世軍を志願する人のために士官学校を開く資金に充てることにした。また、彼は筆を取り、救世軍創始者ウィリアム・ブースの伝記を一般に紹介した。ちょうど翌年4月16日、ブースが日本にやってくる機会があり、日本国民は熱狂的に迎えた。東京市会議事堂で開かれた東京市の歓迎会には、各界の名士が200人以上集まり、軍平はそれらの人々を前にして立派に通訳を務めた。4月20日には、明治天皇が英国代理大使ラウザー同伴でブースを引見し、彼に心からのねぎらいの言葉をかけられたのだった。
その後、軍平は書記長官に任ぜられる。彼は伝道の合間をぬってはブースの著作の翻訳に専念した。この頃には救世軍の事業も一層拡大し、使命を受け継ぐべき若い兵士も多数与えられた。大正4年(1915年)。藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授けられたとき、彼はようやく今までの歩みを振り返り、いかに多くの困難と試練を乗り越え、ここまで支えられてきたかを思い、感謝をするのだった。
大正5年(1916年)7月10日。少し前から健康を害して病床にあった妻の機恵子が危篤となった。彼女は軍平に感謝の言葉を向け、子どもたちを全て枕元に呼び寄せると訓示を与えてから静かに永眠した。心臓まひであった。悲しみの中にあっても軍平は公務に携わり、家庭では残された子どもたちの面倒を見なくてはならなかった。見かねた周囲の者たちの勧めにより、間もなく彼は水野悦子(みずのえつこ)と再婚した。彼女は慎み深く、愛に満ちた人柄であったので、家庭は良く整えられた。
大正15年(1926年)。軍平は救世軍の日本司令官に任ぜられた。それから9年。あたかも最後の力を出し切るかのように熱誠を込めて働いた末、昭和15年(1940年)3月13日、彼はその魂を天の父に返した。社会的弱者のためにささげた生涯であった。(終わり)
■ 貧民救済に命懸けて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(最終回)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(イーグレープ、2015年4月)がある。