佐々木テリーサさんは8年前に米国テネシー州から来日。公立学校の英語教員をしていた岩手県遠野市で3・11に遭った。地元で出会った日本人男性と結婚したばかりで、予備自衛官の彼はすぐに津波被災地に派遣された。
テリーサさんは支援の中継拠点となった遠野にとどまり、地元のおばあちゃんたちと連日たくさんのオニギリを作ったという。被災者と救助隊のために送られる食事だ。「ファイヤ・ファイター(消防隊員)には特に大きいのを握りました」とテリーサさん。食事をする時間も惜しんで救助活動が続けられていると聞いていた。
津波の被害が大きかった陸前高田市には夫の両親がいた。避難して命は無事だったものの、営んでいた旅館は津波に襲われて全損。家業を手伝うため、テリーサさん夫婦が同居を予定していた矢先のことだった。「食堂に車が突き刺さっていて驚きました」。実家に置いてあったテリーサさんのパスポートは濁流に飲まれ、2カ月後に松葉にまみれて発見された。
あまりに多くの人が亡くなり、家屋が失われた。「どうしてこんなことが」「わからない」。さけぶような思いで、被災した街を歩き、神の前に祈った。「でも、神さまはぜんぶわかっているから」そう信じた。
現在、テリーサさん夫妻は陸前高田市内の仮設住宅に暮らす。両親とともに旅館の再建を思い描きながら、テリーサさんは塾の英語教師、夫は高齢者介護施設の職員として働いている。「介護ホームは職員が10人くらい津波で亡くなり、人が足りません。日曜日は彼が仕事で、なかなか一緒に教会に行けないのが残念です」
■ きれいな水のない、子どもに安全な家のない国のことも思う
母国アメリカでは、幼い時期に両親と教会に通っていたが、テリーサさんが7歳ごろから高校に入るまで、そのつながりは切れていた。しかし、教会に行きたいという思いは次第に募っていく。高校生になってテリーサさんの希望はかなえられ、毎週日曜日に友人の祖父母の車に乗せてもらって教会に通った。
「おかげで高校時代ずっと続けて、大学に入ってからは自分で運転して、1時間かけて同じ教会に行きました」。英語教育を専攻し、「神様、どの地でもいいので、私を使ってください」と祈り続けた。卒業後の日本行きを決めたのは日本人の先生の紹介だが、「日本人の友達にもいろいろ教えてもらって。彼女は後にクリスチャンになりました」
テリーサさんの明るい表情、ユーモアと前向きな語りは、大船渡教会の茶話会でも欠かせないものになっている。「公立学校ではイエスさまの話はできなかったけれど、そこは愛とLoveで」と笑顔を輝かせる。
「人はいろいろつらいこともあるけれど、イエスさまは私たちのためにいちばん大変な苦しみを受けて、十字架につけられて私の罪をぜんぶゆるしてくれた。それがあれば、生きていこうと思えます。それがなかったら、ほんとにホープレス、希望はないでしょう?」
「津波から私たちはいろいろ学びました。きれいな水の大切さ、あたたかい家、家族とご飯が食べられること。今ならすばらしいと思えることも、人間だから、すぐそれを忘れてしまいます。日本は平和で安全な国で、それはすごいこと。きれいな水のない、子ども達に安全な家のない国のことも思いながら、祈っています」
子ども達に笑顔をあげたいと話すテリーサさん。「希望を持って進めば、なんでもできる。どこでも行ける。ドリーム・ビッグ(夢を大きく)と思っています」。教える仕事が大好きだと言う。英語教師として、被災の街にあって「イエスさまの愛」を伝え続けている。(続く:「失ったおかげで数百倍の恵みが与えられた」〜支援活動きっかけに救われた尾形伸一さんの証)
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(最終回)
※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。