「園庭に地割れが走り、水道管が破裂して地面から水が吹き上げていました。雪降る中で電気も止まり、大変なことになったと思いました。子供たちの無事を祈らずにはいられませんでした」
大震災直後の様子を、堀秀子園長はそう話す。「駐車場に止めてあった職員の車が大きな亀裂に落ち込んでしまい、余震の続くなか急いで車を引っ張り上げたりもしました」
千厩(せんまや)小羊幼稚園の壁にはいくつも亀裂が入り、みんな外に出て送迎バスの中で待機した。「余震が何度も来たので子供たちは怖がっていましたが、先生たちが元気づけたり、一緒に歌をうたったりして励まし合いました」
その日はすぐに迎えに来られない両親も多く、すべての園児を帰せたのは深夜になってからだという。「翌日も幼稚園は休むわけにはいきませんでした。公務員をはじめ働かなければならないお父さんお母さんに代わって、子供たちを預かるわけです。園内のひどい状態を翌朝も見せたくなかったので、揺れで散乱したものを遅くまで片付けました」と堀園長は振り返る。
3・11のその日、岩手県一関市千厩町は震度5.8を記録した。津波が来襲した沿岸部とは比べられないが、東北内陸部にも大きな被害が及んだ。山間部では土砂崩れも起きていた。
扉や窓の枠がゆがみ、教室から子供が出られなくなった小学校もあった。一関市内では、住家の全壊57棟、半壊734棟、一部損壊3367棟。重軽傷者が34人。市内で死者は出なかったが、沿岸部にいて津波の犠牲になった市民は13人に上った。
堀園長の親友も沿岸部で亡くなった。津波が迫るなかで人々を誘導していて行方がわからなくなったと聞いている。電話会社の所長として働く、頼れる女性だった。「今も遺体は見つかっていません」。思い出すたびに堀園長は涙している。
「津波の被災地では、今も家から出られない、人と会いたがらない人たちがいます。あれだけのことがあったのですから、立ち上がる気力がなかなか戻らないのでしょう。そうした方々が力を取り戻せるように、園児たちといつも祈っています」
■「教会学校幼児科」から地域の子育て拠点に
千厩小羊幼稚園の歴史は、教会学校から始まった。
キリスト教の家庭集会が千厩の地に開かれたのは1952年。伝道所となったのは54年で、その翌年から近隣の児童を集めて教会学校幼児科を開設した。56年に土地を購入して牧師館と保育室を兼ねた教会堂を建設。子供たちを預かるようになった。
以来、キリスト教の精神に基づく幼児教育を続け、幼稚園として教会から独立した園舎も建てた。今では幼保一体の県認定こども園となり、約120名の児童を収容する施設に。さらに小学生を対象とした学童クラブを運営し、子育て公開講座、親子カウンセリングなども行う育児支援と児童教育の拠点となっている。
園のスタッフは約20人。クリスチャンではない人が多いが、月に1度はキリスト教会の日曜礼拝に出席することが求められ、市街地に近い千厩教会と山間部の柴宿教会にそれぞれが通っている。
堀秀子園長が夫の堀友三郎牧師とともに千厩教会に来たのは1961年だった。20代の若き牧師夫妻として結婚直後に赴任。夫は千厩教会と幼稚園の牧師兼園長、妻は牧師夫人兼保母として地域のために力を尽くした。ところが、精力的に働いて認定幼稚園の道も開いた堀牧師が76年に急逝。41歳の若さだった。
■ 神を愛し、人々を愛する子供に
「夫を亡くした悲しみの一方で、これからどうすればいいのかと迷いました」。前の牧師夫人が残っては支障があるのではという思いもあったが、幼稚園の人たちにぜひ残ってほしいと説得され、「私の所属を柴宿教会に移して、園の仕事を続けることにしました」と堀さんは語る。
翌年に園長就任。それから40年近く、堀秀子園長は保育と教育の場で走り続けてきた。教会附属だった幼稚園と保育園を「学校法人愛泉学園」へと衣替え。園児は増え続けた。手狭になった園舎を建て直そうと図面を引き始めた矢先に3・11が起きた。
高台にあった園地の被害は大きく、園舎も「半壊」判定を受けたことから移転の話が動き出す。市役所支所と図書館の隣りという好地に場所が決まり、「子供たちの場所を早く作らなくては」という一心で役所と交渉を進めた。
認可までに文科省や県からさまざまな確認や指示があったが、「苦しいとは思わなかった。子供たちがここで遊ぶ姿を夢見ていましたから」。昨年1月に完成した新築の園舎に移り、2月9日には来賓を招いての献園式が行われた。
堀園長とスタッフは各地の幼児教育施設を視察して、最適なこども園のコンセプトと設計プランに努めた。その成果は、新しい園舎の随所に表れている。安全で便利で楽しい教育空間であることが肌で感じられる。
震災という難局と試練を経たからこそ、地域は一層充実した育児支援と児童教育の拠点を得た。そのように受け止めることもできる。
千厩小羊幼稚園の教育保育目標の第一は「神を愛し、人々を愛するこども」。毎週月曜朝10時に、園長先生からの聖書のお話の時間があり、園児たちはいっしょに小さな祈りをする。
毎年クリスマスには園児による生誕劇を披露するのが恒例だ。今でも「黄金、乳香、没薬」の台詞と歌を忘れないという卒園生たちの声が寄せられる。
震災後、絵本や支援品を送ったり届けてくれた卒園生がたくさんいた。今も折にふれて訪問してくれる立派に成長した彼らとの交流と、園児たちのいつもの笑い声が、堀園長の明日の活力となっている。(続く:被災した教会が「青空礼拝」~心労、うつ病、牧師が再起する時)
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(最終回)
※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。