福島駅からバスで約2時間、南相馬市の原町駅前に着く。目の前のJR常磐線・原ノ町駅は開業しているが、そこから南下する路線は今なお運休中。沿岸部の津波被害と放射能リスクのためだ。南相馬市は福島第一原発から20~30km圏内にある。
駅前の落ち着いた街並みを歩く限り、報道で聞いた厳しい現状は実感できない。しかし、「この辺りだけを見て、復旧したねとおっしゃる人もいますが、沿岸部には傾いた家や横転した車がたくさん放置されています」。カリタス原町ベース長の畠中千秋さんはそう言う。
「いらした方々には、ぜひそちらも見ていってくださいとお伝えしています。何も終息などしていないし、『アンダー・コントロール』という状況ではないことが理解いただけると思います。やはりその場所に行き、自らの目で見ないと分かりません」。東京電力の電気を使っている都会の人には、特に見てほしいと言う。
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畠中さんはカトリックのシスター。修道服を作業服に着替えてボランティア拠点の運営を担う。大阪育ちで、中学の英語教師を経てシスターに。阪神淡路大震災で実家の全壊も経験した畠中さんは、強い思いを抱いて3・11直後から福島に入り、支援活動を続けている。全国からやって来るボランティアの受け入れが主なミッションだ。
「ただ、ここには放射能のリスクがありますから、どうしてもほかの被災地とは異なる意識が求められます。放射能数値については毎日チェックし、今はほぼ安定していますが、安全が保障されているとは言い切れません。といって、危険だとも言えません」。来る人それぞれの判断が基本になる。
■ 自給自足できる土壌と文化は失われて
屋外作業の主な現場は、原発に近い浪江町と南相馬市の一部。そこは今も夜間の滞在が禁止されている居住制限区域だ(午後4時~午前9時は立入禁止)。依頼を受けて、3年以上放置されている住宅内の片付け、家具家電の搬出、庭や畑の草刈り、木や竹の伐採などを行っている。
主に女性にお願いするボランティアの働きには、仮設集会所での傾聴、カフェや手芸の補助、野菜の配布などがあり、原町ベースから人を派遣している。集会所では餅つき大会などのイベントも開催され、それらの手伝いをする。南相馬市内だけで仮設住宅は30カ所。借上げ住宅も含めれば1万人近い避難者がいる。
「仮設住宅に住む方々の気持ちが沈まないように、引きこもらないように、集会所に誘って、楽しみを持っていただけるようにしています。寄り添いのボランティアとして、一緒にお茶を飲んでお話をするだけでもいいのです」と畠中さん。被災者の中には、うつ病に苦しむ人もいる。
ほかの被災地でも耳にしたことだが、パチンコ店が繁盛している。パチンコにはまり、依存に陥る人が多い。津波と原発災害で仕事を失った人が多いためでもあり、「パチンコに行かざるを得ない状況に寄り添う」ことも必要だという。
「仕事を選ばなければ、建築関係や除染作業などの働き口はありますが、農業や漁業に生きがいを持って励んできた人にとっては・・・」と畠中さん。山菜採りに行けなくなったと悲しむ人もいる。「この辺りでは農家でなくても自分の畑で自給自足できて、野菜を買わないですむ家が多かったのですが」。地域の土壌と文化は、壊されてしまった。
■ いつでも、どなたでも、ボランティア歓迎
ボランティア希望者は事前に問い合わせてから来るのが原則だが、「連絡なしで突然訪ねてくる人もいます。それでも仕事はたくさんありますし、原町ベースの2階に男女別の宿泊設備を用意してあるので、いつでもどなたでも歓迎しています」。これまでに200人以上が原町ベースを通じてボランティアに従事してきた。
カリタスジャパンは、社会福祉活動と災害援助を行うカトリックの団体で、東北の被災地各所にベースを設けている。ギリシア語「アガペー」(無償の愛)のラテン語訳が「カリタス」だ。
カリタス原町ベースは2012年春にオープンした。閉園した保育園の建物を借り、1階に事務所、作業所、食堂がある。近隣の修道会から手伝いに通って来るシスターたちの手による温かく美味しい昼食を、記者もごちそうになった。
取材で訪ねたこの日は、東京から女性2人、男性1人の大学生チームが泊りがけで来ていて、屋外作業に出ているとのこと。作業メニューはその日によって異なるが、専任のボランティアリーダーの指示で安全を図りつつ行われる。夕方に作業を終えると、車で近くの天然温泉に立ち寄って汗を流し、疲れを癒やすという。
夫婦でボランティアに通っている、栗村文夫さんと桂子さんにお話をうかがった。文夫さんは親の代からのカトリック。桂子さんは夫とともに日曜礼拝に通いながら、信仰を持つことについてはまだ決めていない。
文夫さんの実家は南相馬市にあるが、「事故が起こるまで、原発についてまったく興味も知識もありませんでした。教えられていた『安全神話』を信じ切っていましたから」と言う。桂子さんも「安全だというPRばかりでしたからね」。文夫さんは「知れば知るほど、なんでこんなことやってたんだと・・・」そう不信を募らせる。
3・11の震災の時、文夫さんは仕事で神奈川に、桂子さんは出身地の岡山にいた。投稿サイトのツイッターを通して震災や原発の情報をやりとりして知り合い、2012年夏の東京での原発反対デモで初めて出会った。そして昨年結婚。いわゆる「震災婚」だ。「いや、『原発婚』かな」と文夫さん。「東電に感謝するわけにはいきませんが」と苦笑する。
今は南相馬市に移り住み、文夫さんは原町ベースのフェイスブック担当ボランティアとして情報発信している。看護師の桂子さんは自ら提案して集会所でアートセラピーの集いを始めた。自由に絵を描いてもらい、感想を述べ合う。「何を描いてもいいですからと誘うと、たいていの人は楽しんでくれます」。何を表現したの? と尋ね、色や構図をほめる。「絵を介してコミュニケーションが活発になる」と言う。
■ 「福島は人が足りないから来た」「来るべきだと」
あらゆる作業に通じたベテランのボランティア、山岡滋さんにもお話をうかがった。カトリック信徒の山岡さんは、自宅のある神奈川から福島に毎週のように通って来ている。岩手や宮城にも支援に出向いたというが、「福島は人が足りないから来ています」。若い人たちに対して、放射能はもう安全だとは言えない。「だから、年配の自分が来るべきだと思いました」と決意を語ってくれた。
シスターの畠中さんは原発について「無知だったという痛みがあります」と打ち明ける。「公立学校の教師だった時、私は夏休みの登校日に平和教育をしていました。原子爆弾は悪い利用、原子力発電は良い利用と、生徒たちに教えたのです。政府の話を鵜呑みにし、安全性についても核廃棄物についても、何の疑問も持たなかった」
その苦い体験を思い起こして「福島で懸命に関わろう」と思った。いま自分の働く場所は「ここしかない」畠中さんはそう確信している。そして、一人でも多くのボランティアの来訪を求めて訴えている。「東北を、福島を、『忘れない』ではなく、『思い続ける』。そのことが、大切なのではないでしょうか」(続く:野菜の無償配布で「3年目の孤独死」を防ぐ~「福島やさい畑」代表の柳沼千賀子さん)
■ 福島県南相馬市・カリタス原町ベース(ボランティア情報)
http://www.jlmm.net/ctvc/01/02-2/haramachi
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(最終回)
※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。