家屋全壊3341戸、死者・行方不明者1814人。人口の7%超を失うという突出した被害を受けた、陸前高田市を訪ねた。
市内の避難指定場所68カ所のうち35カ所が津波に流された。市民体育館には100人ほどが避難し、生き残ったのはわずか3人。予想をはるかに超える15m以上の津波が街を襲ったとされる。津波は団地の5階まで達し、さらに1.5kmも遡上した。壊滅した街の復旧は、今なお進んでいない。
車で陸前高田市に入ると、そこにあるはずの市街地は存在しない。古い型式のカーナビ画面に、市役所や駅が表示される。しかし、現実の周囲を見回すと、何もない草原が広がっている。さびしい車道をダンプカーが往来する。市はこのまま再開発しても危険があるとして、土を運んで地面を数メートルかさ上げする計画だ。
津波がすぐ手前まで押し寄せ、わずか数メートルのところで助かった教会がある。陸前高田キリスト教会(日本ベテルミッション)だ。その時、森田為吉牧師は夫人と裏山に避難した。地震の激しい揺れで落ちた食器を片付けていたが、警報とともに坂道を駆け上がって来る人たちの様子に初めて危機を覚えた。教会のある高台まで、津波は黒いうねりとなってやってきた。家を、街を、なぎ倒して迫って来る。
「ここもだめかもしれない」そう思った。津波はじわじわと斜面を這い上がって、勢いを失った。教会のすぐ下、二軒先の家まで床上浸水していた。奇跡のような出来事だが、喜びはない。眼下にいつもの街は消えている。わずか10分足らずのこと。信じがたい悪夢だった。高台の裾野は押し寄せた瓦礫に塞がれて、陸の孤島と化していた。森田牧師にできるのは、祈ることだけだった。
避難所となった公民館に身を寄せ、5日後に教会へ戻ることができたが、水も電気も止まっている。裏山の井戸のある家から水をもらい、給水車が来た4月までしのいだ。電気が復旧したのは5月。地区には体調を悪くするお年寄りもいて、道路の早期開通を行政に訴えた。2週間ほどでようやく瓦礫が撤去されると、全国の教会から人と支援物資がやってきた。会堂は人と物資でいっぱいになった。
多くの支援物資を仮設住宅などに配り、多くの人から感謝された。「教会は頼りになる」という声も聞こえてくる。しかし「一時的に物に困るということと、心の渇望は違うものですからね」と森田牧師。物の流通がもとに戻れば、教会の存在を意識する人は少なくなっていった。
各地から来た支援者と、ひと息つく交わりの時、「これは裁きだ」と口に出す人がいた。「東北の人は、特に罪深いから、神の裁きがくだったんだ」。東北でキリスト教を信じる人が少ないことを指して、そう漏らしたものらしい。もちろん周囲から諫(いさ)める声が上がった。「あなたは神様を誤って解釈している」
東北はお寺が強いと言われる。檀家制度は都会よりも強固だ。漁業の街ということもあって、大きな神棚を祀り、海の安全や豊漁を願う札や旗を壁にいくつも掲げる家が多かった。「この場所での伝道が難しいことは確かです」と森田牧師は言う。
森田牧師が陸前高田に教会を開いたのは49年前。出身地は東京で、神学生時代から東北での開拓伝道を心に秘めて祈っていた。東北の地図を広げ、教会のない市を調べ上げ、陸前高田の名が挙がった。ともに祈ってきた夫人を伴い、27歳でそこに赴いた。この街には今も、ほかに教会はない。
当時よくあった「天幕集会」から開拓を始めた。野外でアコーディオンを奏で、太鼓を鳴らして人を集めた。その時に信仰に導かれた子ども達が、今も各地で信仰を守り続けている。震災の報に心配して電話をくれたりお見舞いに訪ねてくれたりした人もいるが、ほとんどが故郷を離れている。高校を出れば都会に出て、帰って来ないことが普通なのだ。
被災前には12人だった陸前高田キリスト教会の礼拝出席者が、現在は10人ほどに。命を落とした信徒はいなかったものの、5人が家を流された。まだ仮設住宅に住む人もいれば、別の地に転居した人もいる。
森田牧師は今年77歳になる。仮設住宅の集会所などで開かれている茶話会、いわゆる「お茶っこ」に顔を出し、被災者と向き合い、その声に耳を傾けている。「聞いているほかの仮設住宅と違って、陸前高田では比較的、キリスト教会から来たと言うことには寛容です。信仰の話がまったくできないということはありません」
陸前高田の街の復旧だけでなく、人々の信仰復興にも、希望を灯してなお進み続けている。 (続く:津波で信徒を失う悲しみ 会堂は災害支援の拠点に~大船渡教会)
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
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※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。