福島教会にとっては、信仰も揺れ動かされるような日々だった。信徒の避難や移住だけでなく、専任だった若い牧師が去り、無牧となった。大阪から似田兼司牧師夫妻を迎えたのはその年の12月。まだ放射能数値の高い場所が次々と見つかっていた。
「求めがあるのなら、私たちが行こうと思いました」と似田牧師は言う。「若い人は無理だから、私たちなら」と祐子夫人も笑顔で言葉を添える。
「自分は行きたいと思っている、と言う若い牧師もいましたよ」と似田牧師は続ける。「でも、彼の奥さんから『あなた、行ってらっしゃい』と言われたそうで・・・」(笑)
原発に近接して、津波被害も大きかった浪江町避難者のための仮設住宅が、教会から徒歩10分ほどの所に建てられ、今も多くの人が生活している。福島教会ではチェロとピアノのコンサートを催して案内状を届けるなどしてきた。コンサートには多くの聴衆が集まったが、避難者が教会に通うようになったという話はまだ聞かない。
祈祷会のあった木曜日の午後には、複数の業者を招いての新会堂建築説明会が開かれた。すでに設計図も建築模型もできていて、予算と見積りの調整が課題だ。福島教会のために祈り続ける全国の人々から献金が寄せられてきているが、建築に必要充分な額には届いていない。
今も海外から励ましの手紙や手作りの品が送られてくる。この教会には「奇跡の鐘」と呼ばれる宝が大切に保管されている。高さ48cm、口径50cm、重さ59kg。日露戦争の戦利品を潰した金属で造られた鐘で、かつては鐘楼から街中に音色を響かせていた。
太平洋戦争中に軍の命令で供出させられ、溶鉱炉に消えたとばかり思われていた鐘だが、戦後になって突然「返還する」と通知される。どういう経緯かその鐘が戦利品としてワシントンに運ばれ、刻まれた「福島」の名を見たワシントンの教会の人々が、「なんということをしたのか。この鐘は返さなければ」と返還運動を起こしたという。
アメリカ海軍の船で横浜港に届けられ、福島教会に戻ってきたこの「奇跡の鐘」は、新会堂が完成したら、そこで展示される予定だ。
この日の祈祷会では詩篇62が朗読されていた。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら」。似田牧師の力強い講解がそれに続いた。「神様以外のなにものにも救いを期待しない。守る力が神様にある。そのような堅い信仰です」(続く:フクシマが乗り越えてきた三重苦―南相馬市・浪江町<写真編>)
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(最終回)
※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。