海に近いその教会は、たちまち津波の濁流に飲まれた。警報を聞いた吉田牧師(仮名)は、すぐに教会から裏山へと避難していた。「外出していた家族もちょうど帰ってきて、一緒に行動できたことは幸いでした」。津波に押し流される町の様子を、住民の誰もが山の上から見ているしかなかった。
地震発生直後、気象庁はこの地域の津波の高さを3mと予報。町はそれを防災放送で伝えた。間もなく気象庁の津波予測は10mに引き上げられたが、すでに停電していた町は情報の訂正ができなくなっていた。3mの津波なら上の階への避難で大丈夫だろうと人々は考え、実際には10m近い津波が押し寄せて、多くの死者・行方不明者を生むことになった。
すさまじい土けむりとともに、海が壁のようになって迫って来る光景を裏山から見た記憶はある。しかし、吉田牧師は津波が教会を襲った瞬間を憶えていない。「見逃したのか、見ていて記憶から消し去ったのか、それもよくわからないのです」。気がつくと人々の無事を祈っていた。この町の牧師として責任と使命を感じた。
水が引くのを待って、避難した山から町へと下りた。瓦礫と泥でひどい状態だった。押し流されてきた車が向かいの家に突き刺さっている。教会堂の流失は避けられたが、内壁には人の背丈を越えた水位の跡がくっきりと残っていた。「戻った時は泥水がまだ膝までありました」。自宅やビルに取り残されて動けなくなっていた人たちも多かった。深い泥に足をとられながら、吉田牧師は地域の人とともに騎馬戦のように組み合って人々を救助した。
次の仕事は、教会周辺に押し寄せた瓦礫を片付け、会堂に溜まった大量の泥をかき出すことだった。途方もない時間がかかることが予想でき、人出はいくらあっても足りなかった。「講壇も聖餐卓も散乱して泥に埋もれ、グランドピアノは3本足を見せてひっくり返っていました」。そんななか、各地から徐々にボランティアが駆け付けてくれるようになる。多い時には50人ほどが集まり、泥を洗い流した会堂の床に雑魚寝で泊り込んで作業を続けた。
■ 教会の前で喜びの「青空礼拝」
被災からおよそ1週間経った3月20日、教会の前に椅子を並べて「青空礼拝」を開くことができた。「忘れられない、すばらしい礼拝でした」と吉田牧師。「なにも準備できない状態でしたが、信徒とボランティアの皆さんの、ここに集まれてうれしいという喜びと明るさであふれていました」。薪ストーブで暖をとりながら、ギター伴奏の賛美歌に声を合わせた。今こそ御言葉を語り、主の声を聞きましょうと励まし合った。
3・11の後、津波によるすさまじい被害と遺族たちを目の前にして、言葉を語るはずの牧師でさえその多くが言葉を失った。が、吉田牧師は「はじめから被災現場の真ん中にいると、むしろ語りたくなる」と言う。「そこに人が生きて、そこに神様がおられることを実感するからです。被災直後は、自分の言葉でないものがあふれ出てくるような感覚がありました」
一方で、教会の立て直しについての話し合いが重ねられた。会堂の修復を急がなければと言う人もいれば、「開かれた青空礼拝」が好ましいと思う人もいた。それぞれの微妙な意識の差が、時に摩擦を生むことがあった。牧師にとっては休日のないストレスも大きかった。緊張と使命感で保たれていた吉田牧師の気力を蝕み始めていた。体調を崩しがちになり、鬱(うつ)の症状に苦しむまでになる。
「仮設住宅の寝床の中で、泣いている自分に気づいて目が覚めることがありました。わけがわからず、涙が出ることが続いた」。何を見ても何を聞いても涙が出たという。「涙を押し止めて、前を向いて進もうという気持ちはありました。しかし、休みが必要なことも確かだったようです」。牧師の働きを休む決意をした。病気であることを強く訴えない限り、牧師が休むことは許容されないという空気も感じていた。
吉田牧師は、被災直後の「自分の言葉でないものがあふれ出てくる感覚」について思い返していた。考える中で、それは「存在の言葉」だったのではないかと気づく。「何かを説明するためではなく、聖書を説くのでもなく、神様はここにいる、私はここにいるという声。その言葉があってこそ、私たちは生かされる。私たちを慰め、励まし、だから私たちはこれまで生きてこれたのではないか、そう感じるのです」
数カ月の休養を経て、吉田牧師は再び講壇に立った。完全な回復とは言えない体調ではあるが、「そんな自分を用いる神を信じて」人々に語りかけている。3年目のこの春、会堂の改修工事もすべてが完了する。
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(最終回)
※ シリーズ「震災3年目の祈り」は今回で終わります。被災地での教会の働きや信徒の方々の証など今後も取材を続けます。ぜひ情報をお寄せください。