3・11の津波で大きな被害を受けた「旧石巻ハリストス正教会教会堂」(宮城県石巻市)を移築するための解体工事が始まった。現存する木造の教会としては国内で最も古く、指定文化財として市が管理している。「ハリストス」とはギリシャ語で「キリスト」を意味する。
「教会堂」は石巻駅から徒歩15分。旧北上川の中州(中瀬公園)で一般公開されていた。1880(明治13)年に「聖使徒イオアン聖堂」の名称で石巻市千石町に建てられ、一時は多くの信徒を集めていたという。1978年の宮城県沖地震で被災し、大きく損壊した。
当時、埼玉県に移築する話もあったが、若手建築家たちが「貴重な文化財を失ってはいけない」と、地元での保存運動を開始。市や企業に掛け合い、資金を集めて中瀬公園への移築と文化財指定につなげた。以後、宗教施設としては使用されていない。
ところが、3年前の東日本大震災で再び被災。津波に襲われて2階まで浸水した。外壁や内装が崩落し、支柱もゆがみ、倒壊のおそれがあるため、石巻市は解体して別の場所に移築することを決定。25日から建物の壁を剥がす作業を進めている。工事完了は来月末を目指しているが、移築場所はまだ決まっていない。
解体と復元には6000万円ほどの費用がかかるとみられ、宮城県沖地震の被災時に保存を呼びかけた人たちを中心に再び「市民の会」が結成され、支援金を募っている。事務局の四倉由公彦さんは「解体中の教会堂を見守り、保存を願う人の声を集める署名活動を準備しています」と話す。石巻市が実施した市民アンケートでも「震災遺構として保存したい建築物」として、3割もの人が「旧石巻ハリストス正教会」の名を挙げている。
設計者は不明だが、正教会堂の設計が許されるのは正教徒だけとされているため、日本人信徒の可能性があるという。上空から見て十字型の構造で、屋根は瓦ぶき、1階は畳の集会室という和洋折衷。2階に絨毯敷きの聖所・至聖所が設けられ、至聖所には主教や司祭など限られた役職者しか入ることができなかった。
石巻市では明治初期から正教の布教が始まった。受洗者が相次ぎ、当時の石巻には116人の信徒がいたという記録もある。しかし、日露戦争、ロシア革命が起こり、さらに正教会はモスクワ政権から弾圧されていたにもかかわらず、日本では「正教会も共産主義」との偏見を持たれ、信徒数は減少した。
「教会堂」が最初に建てられた市内の千石町の地には、石巻ハリストス正教会の現役の聖堂がある。3・11の際にはそこでも約1mの津波浸水があったが、床を張り替えて復旧した。司祭の田畑隆平さんによると、在籍しているのは約60戸の信徒家族。高齢化が進んでいて、毎月第1と第3日曜日に行われている礼拝(聖体礼儀)出席者は10人ほど。土曜夜の祈り会(晩祷)は、田畑司祭と夫人だけのこともあるという。