1階は誰でも気軽に立ち寄れるカフェ。2階は日曜礼拝やコンサートも行える集会所。被災地支援団体サマリタンズ・パースの活動拠点として2011年11月に始動し、2012年12月から気仙沼ホープセンター(KHC)としてオープンした。人々はここで休息し、必要なものを得て、また送り出されていく。代表のデイビッド風間牧師にKHCの働きについて聞いた。
「被災地にいて強く感じるのは、受け身ではいけないということ。ここでもそれぞれが自分の得意なことを発揮して欲しいです」。そう話す風間牧師は多才な人だ。メッセージに立てば一人で日本語と英語を交互に語り、賛美の時はピアノを弾いてギターを奏で、日本語、英語、中国語で次々と歌う。青森に生まれ、25歳で米国留学した。妻の李芳さんは中国出身という。
「神様は特定の目的のために人を訓練しています。私の場合も、言葉にしろ音楽にしろ、震災後ここに来るためにすべての能力が準備されてきた。そうとしか説明がつかない。そういうものじゃないでしょうか」と風間牧師。「内側に住む神がすばらしいのであって、私はただの入れ物に過ぎません。皆さんが神様を信じて新しい人生を歩んでもらえればそれでいい」
KHCでは、これまで被災者支援のボランティアはもちろん、音楽祭などを開催してきた。今年はさらに、子育て講座、家庭料理講座、編み物講座や語学教室(中国語・英語ほか)、ゴスペルやドラムのワークショップ、ボイストレーニング、スポーツイベントと、たくさんの企画を準備している。バイブルセミナーもその一つだ。
「東北は冬の気候の厳しさ、そして自分の思いをストレートに出さないという文化的な側面もあります。そこに震災のショックと喪失感が加わり、うつ状態になる被災者が少なくありません」。仕事を失い、意欲をなくしてパチンコ依存に陥る人もいる。「それを責めるわけにはいきません。イエス・キリストを示し得なかったという、我々の責任でもあります」
風間牧師は2011年4月から被災地での活動を始めた。栃木県で家の教会を開いていた時に3・11が起きる。福島原発から遠くない距離だっため、夫妻は幼い2人の子を連れて一時大阪に。その後、ジャパンミッションセンターの派遣で東北に来た。サマリタンズ・パースの通訳スタッフを務めながら、津波をかぶった家屋の泥出し仕事から着手した。
今のホープセンターの建物も、そのうちの一つだった。もとは材木問屋の倉庫で、後に住宅として使われていたが、「津波に襲われてひどい状態でした。掃除をしていく中で持ち主と友達になり、ここをボランティアセンターにしたいという思いが与えられ、持ち主も承諾して実現したのです」。多い時には50人が宿泊する支援拠点となった。
地域に根ざしてきた気仙沼第一聖書バプテスト教会は、床だけを残してすべてが流されていた。その場所で一緒に流木の十字架を立て上げたり、支援物資を配ったりするなど、サマリタンズ・パースのスタッフとして多くの活動を重ねたことが、この地にとどまる導きへとつながった。
「みんな泥だらけになって働きました。奉仕のためにやって来た人の汗や泥にまみれた姿の中に、人々は神の愛を見るのだと思います。我々は、まず朝の作業の前に祈り、昼食の前に祈り、さらに夕方の解散時にと、毎日3回祈ります。その祈りに地元の人も自然に入ってくる。そこではイエス様も寄り添っている。そういう状況でした」
家も教会も流されるという非常時にあって、「青空の下、瓦礫と泥の中での祈りの時は忘れがたいものがありました」と風間牧師は話す。「教会の原点を見た思いでした。福音書の時代は路傍の伝道だったわけですから。Church on the roadside(路傍の教会)が、ぼくの得た理想の形です」
各地から支援ボランティアが集まり、海外からやって来たたくさんのクリスチャンの顔もあった。ブラジル人たちがギターを弾き、地元の人たちも参加して、みんなで声を合わせて歌い、祈る。悲惨と厳しさの現場の中で、うるわしいひと時が生まれていた。 (続く:良き「コンビニ教会」を目指す気仙沼ホープセンター)
■【3.11特集】震災3年目の祈り:
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※「震災3年目の祈り」と題して、シリーズで東北の今をお伝えしています。