臼田宣弘
1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。
1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。
今回は、エフェソ書3章14節から21節を読みます。この箇所は祈りです。そのうち14~15節が導入、16~19節はとりなしです。原文では、14~19節はピリオドが最後にしかない、ひとつながりの文になっています。
今回は、エフェソ書3章8節から13節を読みます。前回、「秘められた計画」がエフェソ書執筆よりは少し前に、使徒や預言者に啓示されたことをお伝えしました。
今回は、エフェソ書2章19節から3章7節を読みます。前回、「エフェソ書は教会論を述べている」とお伝えしました。教会を表現する場合、1章22~23節においてはキリストの体とされていました。今回の箇所では、教会を建物に例えています。
今回からエフェソ書の本文に入ります。ここでは「教会とキリストの奥義」ということが論じられ(2:11~3:13)、祈りと頌栄によって文が結ばれています(3:14~21)。今回は「教会」について記されている2章11~18節を読みます。
今回は2章1~10節を読みます。この箇所には、フィレモン書とコロサイ書を貫通する「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」構文と「善い業(アガソス / ἀγαθός)」が見られる箇所です。
今回はエフェソ書1章15~23節を読みます。これだけ長い文章ですが、原文では19節の終わりに読点が一度打たれているだけです。内容的には、ひとまとまりになっているとしてよいと思います。
今回はエフェソ書1章11~14節を読みます。神を頌(たた)えることを意味する「頌栄」の色合いが特に強い箇所で、「神の栄光をたたえる」という言葉が繰り返されています。
今回はエフェソ書1章7~10節を読みます。ここは日本語訳では幾つかの文に分かれていますが、原文ではひとつながりの文になっています。7節に「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」とあります。
本コラムは「フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書」が「パウロ―フィレモン―オネシモ」というライン上にあり、そのつながりで3書を読むことを目指しています。そういう観点で、これからはエフェソ書を読んでまいりたいと思います。
2回にわたって、先人の研究を基にエフェソ書オネシモ著者説をお伝えしてきましたが、今回は私が考えている、エフェソ書の著者がオネシモである2つの理由を述べたいと思います。
今回は、エドガー・ジョンスン・グッドスピード(1871~1962、米国)と、ジョン・ノックス(1900~1990、米国)、C・L・ミトン(1907~1998、英国)の説を取り上げたいと思います。
本コラムでは、パウロの真性書簡と擬似書簡についてお伝えしています。真性書簡とは「パウロ自身の手による書簡」であり、擬似書簡とは「パウロ以後にパウロの弟子たちがパウロの名前によって書いた書簡」ということです。
前回でコロサイ書の本文は読了しました。ここで、論点として大切な「コロサイ書の著者はフィレモンである」ということについて、本コラム執筆のためにコロサイ書を詳読して気が付いたことをまとめておきたいと思います。
コロサイ書の本文をお伝えするのは、今回が最後になります。4章10節から14節は、パウロの同労者からのあいさつで、ここでの人名はフィレモン書23~24節に登場する人物と重なっています。
前回、「私は、初代教会の中に壮大なノンフィクションの『オネシモ物語』が存在していたと捉えています」と申し上げ、日本のおとぎ話「浦島太郎」と重ねると分かりやすいとお伝えしました。
コロサイ書の本論は4章6節で終わり、4章7節から手紙の最後までは「結びの言葉」(新共同訳聖書の表題)となります。この「結びの言葉」においては、フィレモン書と多くの人名が共有されています。
今回はコロサイ書3章18節~4章1節を読みます。この部分は「家庭訓」または「家庭道徳訓」といわれ、挿入と考えられます。3章18~19節は「妻と夫」、20~21節は「子と親」、22節~4章1節は「奴隷と主人」の間においての訓戒です。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。また、本年皆様の上に神様の祝福が豊かにありますように、そして新型コロナウイルス感染症の終息をお祈り申し上げます。
今回は、コロサイ書3章13~15節aを再度読むことにいたします。13節は、コロサイ書の「子の手紙」であるエフェソ書の4章32節と並んで、「神の側が赦してくださったのだから、赦し合いなさい」と記されている箇所です。
アドベントクランツにともしびがともり、今年もイエス・キリストのご降誕を待ち望む季節となりました。嬰児(みどりご)イエスが、馬小屋にお生まれになったことは、私たちの現実の心の中に救い主が来られたことを意味するとされています。