今回はエフェソ書4章25節~5章5節を読みますが、この箇所は旧約聖書の十戒と関係が深いので、最初にそれを提示します。
「十戒」
- あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
- あなたはいかなる像も造ってはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫(かんいん)してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の家を欲してはならない。
(出エジプト記20:2~17、申命記5:6~21参照、『こどもさんびか(改訂版)』192ページより)
それでは、エフェソ書の当該箇所です。
4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27 悪魔にすきを与えてはなりません。28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖(あがな)いの日に対して保証されているのです。31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32 互いに親切にし、憐(あわ)れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦(ゆる)してくださったように、赦し合いなさい。5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献(ささ)げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
キリストの体において真実を語り合う
4章25節に、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」とあります。これは、旧約聖書のゼカリヤ書8章16節にある「互いに真実を語り合え」の引用であるといわれています。しかし同時に、十戒の第9戒「隣人に関して偽証してはならない」に対応しているともいえるでしょう。同節後半には「わたしたちは、互いに体の一部なのです」とあります。ゼカリヤ書や十戒が、イスラエルの共同体の中で語られているのに対し、エフェソ書の該当箇所では、キリストの体であるところの教会共同体で語られていることが特に強く意識されています。これは、パウロの真性書簡である第1コリント書12章12~27節、特に27節の「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」にのっとって書かれているのだと思います。
殺人に先立つ心身の動きとされるもの
イエスの山上の説教に以下の言葉があります。
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイ5:21~22)
イエス後の新しい時代は、他者に対して怒ることや、悪口を言うことも、殺人に先立つ心身の動きとされて、裁きの対象となるということです。26節の「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と、29節の「悪い言葉を一切口にしてはなりません」、そして31節の「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」は、上記のイエスの言葉を受けた、殺人に先立つ心身の動きといえると思います。ですからこれらは、十戒の第6戒「殺してはならない」に対応しています。人間ですから、他者に対して感情的に怒りを持つことはあっても、その後は和解をすることが求められています。
黄金律との関係
27節には、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません」とあります。これは十戒の第8戒「盗んではならない」に対応しています。また、5章3~5節の「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」は、十戒の第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」と、第7戒「姦淫してはならない」に対応していると思われます。
以上のように今回の箇所は、旧約聖書の十戒と関係が深いと捉えることができます。ところで、旧約聖書と新約聖書にはそれぞれ、「黄金律」といわれている言明が存在します。旧約聖書は「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(タルムードより、旧約聖書続編トビト4:16参照)であり、新約聖書は「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」(マタイ7:12、ルカ6:31参照)です。聖書の中に「黄金律」という言葉自体があるわけではないのですが、この二つの言明はそのようにいわれています。
十戒とは、特にその後半は、上記の旧約聖書の黄金律そのものであるといえましょう。私たちが他の人にしてほしくないことが、「~してはならない」という言い方で伝えられています。今回の箇所は、そのような「~してはならない」という戒めが、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」とう形に変えられた、あるいはそういった内容の言葉が加えられたのだと思います。具体的に示すと、「真実を語りなさい」(4章25節)、「困っている人々に分け与えるようにしなさい」(28節)、「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(29節)、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31節)、「愛によって歩みなさい」(5章2節)、「感謝を表しなさい」(4節)です。これらはいずれも、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という内容の言葉です。
善い業
本コラムでしばしば取り上げている、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書を通関している言葉「善い業(アガソス / ἀγαθὸς)」が、今回も2カ所出てきます。新共同訳聖書では「善い業」と訳されていませんが、28節の「正当な」と29節の「役立つ」が、アガソスに該当すると思われます。前段落とつなげて捉えるならば、今回の箇所では、「善い業を行う」ということが、「人にしてもらいたいと思うことを人にもする」ということを伝えているとも思えます。
その中心となるのが、32節の「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」であると私は考えています。これは、コロサイ書3章13節の「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」に依拠しています。
最近の世界の聖書学界においては、コロサイ書とエフェソ書の2書を「第2パウロ書簡」と呼ぶ傾向があるようです。新約聖書の中で、上記2箇所の「キリストに赦されたのだから赦し合う」という概念のフレーズは、実はパウロの真性書簡にはないのです。これは第2パウロ書簡のみに現れる、新約聖書の中でも重要な教えだと思います。
イエス・キリストは、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」と説き、自らが十字架で私たちの罪を赦すことで、「赦す」という私たち人間が他の人からしてほしいことを、「キリストに赦されたのだから赦し合う」ということにおいて行い合う道を開いてくださったのだと思います。そしてそれを伝えているのが、両者ともパウロの弟子であり、同時に「愛する兄弟」(フィレモン書16節)の関係であった、コロサイ書の著者フィレモンとエフェソ書の著者オネシモであると、私は考えています。(続く)
※ フェイスブック・グループ【「パウロとフィレモンとオネシモ」を読む】を作成しました。フェイスブックをご利用の方は、ぜひご参加ください。
◇