今回はエフェソ書4章17~24節を読みます。
17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23 心の底から新たにされて、24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
神の命
17節の「異邦人」は、神を信じていない人々を意味しています(石田学著『エフェソ書を読む』139ページ参照)。17~19節を読みますと、神を信じていない人々を愚弄しているようにも感じてしまいます。しかし、18節がコロサイ書1章21節の「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」に依拠しているとされている(田川建三訳『新約聖書 訳と註(4)―パウロ書簡その二 / 擬似パウロ書簡』586ページ参照)ことを鑑みますと、神を信じていない他の人々というよりも、神を信じるようになった人々の以前の状態のことを示しているように思えます。
ですから、ここからはむしろ、神を信じるようになった人々の現在を読み取ればよいのであって、18節の「神の命から遠く離れています」は、彼らの以前の状態であり、神を信じた彼らは今、「神の命と共にいるのです」と受け止めてもよいのではないかと思います。「神の命」とは、新約聖書に出てくる「永遠の命」という言葉が持つ一つの側面と同じ意味です。
例えば、よく知られた聖句に、ヨハネ福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」があります。この場合の「永遠の命」とは、「永遠に生き続ける命」というよりも、「永遠の存在である神の命」と解するべきだと思います。そうしますと、「独り子を信ずる者は神の命を得る」ということになり、上記の「神の命と共にいるのです」と同じ意味になります。
キリストを学ぶ
20~21節は、コロサイ書2章6~7節に依拠し、キリストを学ぶとはどういうことなのかを示していると思われます。コロサイ書のその箇所を提示します。
6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
エフェソ書の当該箇所では、これに「真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」が加えられて、文が成形されています。キリストを学ぶということは、真理がイエスの内にあることを学ぶことです。
ここで、「キリスト」でなく「イエス」とされているのは、地上のイエスであることを示しているとされています。地上のイエスとは、十字架にかけられたイエスを指しているのでしょう。つまり、十字架に真理があるということです。
ヨハネ福音書18章38節に、ローマの総督ポンテオ・ピラトが「真理とは何か」と問う言葉があり、それに答えるように十字架の出来事は進んでいきます。真理とはイエスの十字架の出来事なのです。キリストを学ぶとは、それを学ぶことなのです。
古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着ける
22~24節は、コロサイ書3章9~10節に依拠して、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着けることが示されています。コロサイ書のその箇所を提示します。
9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
エフェソ書ではさらに、「心の底から新たにされて」が加えられています。キリストを学び、心の底から新たにされるということです。また、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着けたことの結実としての「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」という文が加えられています。
前述のように、真理とは十字架にかけられたイエスのことですから、それに基づいての正しく清い歩みが求められています。ですから、正しく清い歩みとは、単に道徳的にそのようにありなさいということではなく、私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリストのみ前で歩んでいくということなのです。それは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)というイエス・キリストに倣い、私たちもまた、神に従順であり、他者に仕えて生きるということでもありましょう。
今回の箇所においても、エフェソ書の著者と想定されるオネシモが、パトロヌス(解放後の奴隷に対する元主人の立場・保護者)であり師であるフィレモンが書いたと想定されるコロサイ書に倣っていることが明らかにされました。そしてもちろん、彼は使徒パウロの信仰と教えを伝えているのです。(続く)
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