今回は、エフェソ書2章19節から3章7節を読みます。
2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者(たち=原文は複数)という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
使徒と預言者たちの土台とキリストのかなめ石
前回、「エフェソ書は教会論を述べている」とお伝えしました。教会を表現する場合、1章22~23節においては、「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と、キリストの体とされていました。今回の箇所では、教会を建物に例えています。
2章20節前半に、教会は「使徒や預言者たちという土台の上に建てられています」とあります。この場合の使徒というのは誰を指しているのでしょうか。マッテヤを含む12使徒やパウロのことを指しているのかもしれません。しかし、注解書などを見てみますと、第1コリント書12章28節の「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師(後略)」やエフェソ書のこの節を根拠に、使徒とは「最初期の教会における最も重要な職務の担い手」などとされていて、ここではむしろこの言葉の定義付けがなされているように思えます。
預言者というのは、旧約聖書に登場する預言者ではなく、最初期の教会において、霊に満たされて福音を語っていた人たちとすることができましょう。そして、その使徒と預言者たちが教会の土台となっているとされています。
続けて、「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」と記されています。かなめ石というのは、「アーチ型の玄関のてっぺんにある石」とも説明されますが、私は思い切ってロシアの教会から説明を試みたいと思います。ロシアに行きますと、ロシア正教会の会堂はどこも、尖塔に「タマネギ」と呼ばれるものを付けています。写真は、2007年にロシアのハバロフスクを訪れたときに撮影したウスペンスキー教会です。てっぺんに三つと手前に一つ、十字架の下に付いているのが通称「タマネギ」です。
現代の建物で説明するならば、むしろこの方が分かりやすいのではないかと思います。ロシア正教会には「タマネギ」は数個付いていますが、これが一つであると考えればよいのです。聖書の時代の建物が実際にどうであったかは分かりませんが、建物の中のそのような石が「かなめ石」です。「扇のかなめ」のような役割を担う石です。イメージとしてはそういうことでよいのではないかと考えています。
イエス・キリストは「教会のかしら」であり、教会は「使徒や預言者たちという土台の上に建てられ、そのかなめ石はキリスト・イエス御自身」なのです。そして2章21節では、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とされています。かなめ石において建物全体が組み合わされて、かなめ石に向けて成長していくのです。それが教会であり、異邦人がユダヤ人と共にそこに招かれているということです。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(22節)
過去の存在である使徒と預言者たち
3章5~6節を見ますと、「この(秘められた)計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」とあります。教会の土台とされた使徒や預言者たちですが、その使徒と預言者たちに「『秘められた計画』が啓示された」というのです。「『秘められた計画』が教会の土台となった」と言い換えてもよいでしょう。そしてそれが、「今や」なされたというのです。
「秘められた計画(ミューステーリオン / μυστήριον)」という言葉は、コロサイ書1章26節にも「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです」とありましたし、エフェソ書でも1章9節ですでに記されていました。コロサイ書とエフェソ書を結ぶ大事な言葉の一つです。コロサイ書の「秘められた計画」も、「今や」という文脈で書かれています。
さらには、ローマ書16章25~27節には以下のように記されています。
25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ローマ書はパウロの真性書簡ですが、この16章25~27節は、2次的な付加であるともいわれています。今までにお伝えしていますように、私の持論は「パウロ書簡の蒐集(しゅうしゅう)者はオネシモである」のですから、これを付加したのがオネシモである可能性はあると思います。しかし、今回はその論議に立ち入るつもりはありません。ただこの箇所が、「コロサイ書とエフェソ書と同じ伝承圏に属している」ということはいえるのではないかと思います(『ギリシア語新約聖書釈義事典(2)』516ページ参照)。ここでも、「秘められた計画」は「今や」という文脈で書かれています。「秘められた計画」が、コロサイ書やローマ書が書かれた時期に啓示されているということです。コロサイ書やローマ書が書かれたのは、エフェソ書が書かれた時期よりもずっと前のことであり、「秘められた計画」は、エフェソ書が書かれた時期よりもずっと早い時に、使徒や預言者たちに啓示されたということです。
そういったことなどから、ここでの使徒や預言者たちとは、エフェソ書が書かれたよりもずっと前の職務であるともされています。教会はその土台の上に立って、日々かなめ石であるキリストに向って成長していくのです。それは、今日の教会にもいえることでしょう。いにしえの「秘められた計画」が啓示された使徒や預言者たちの土台の上に立って、教会はキリストに向かって成長していくのです。
わたしパウロ
最後に、3章1節の「わたしパウロ(エゴー パウロス / ἐγὼ Παῦλος)」ということについて少しお伝えしておきます。
このように書かれているからといって、エフェソ書がパウロ本人の書いた真性書簡であるということにはなりません。私はむしろこの言葉に、エフェソ書のフィレモン書とコロサイ書との共通性を見るのです。フィレモン書(「わたしパウロが自筆で書いています」 / 19節)にも、コロサイ書(「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」 / 1章23節)にも、この言葉はあるからです。
お伝えしていますように、私はコロサイ書の著者はフィレモンであり、エフェソ書の著者はオネシモであると考えているのですが、フィレモンとオネシモが、パウロの思いを伝えようとして、フィレモン書の「わたしパウロ」という言葉を用いたのではないかと考えています。(続く)
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