コロサイ書と似たエフェソ書の構造
コロサイ書とエフェソ書を読んでいくと、構造がよく似ていることを感じます。2つの書の構造を表にしてみたいと思います。
コロサイ書 | エフェソ書 | |
---|---|---|
書き出し | 1:1~29 | 1:1~23 |
本文への導入 | 2:1~5 | 2:1~10 |
本文 | 2:6~23 | 2:11~3:21 |
実践的な勧告 | 3:1~17 | 4:1~5:20 |
家庭訓 | 3:18~4:1 | 5:21~6:9 |
最後の勧告 | 4:2~6 | 6:10~20 |
結びの言葉 | 4:7~18 | 6:21~24 |
このように大変よく似た構造になっています。エフェソ書はコロサイ書を手元に置いて書かれたといわれていますが、まさにそうされていたからこそ、よく似た構造になったのだと思います。
「教会」について―エフェソ書の本文より
今回からエフェソ書の本文に入ります。ここでは「教会とキリストの奥義」ということが論じられ(2:11~3:13)、祈りと頌栄によって文が結ばれています(3:14~21)。今回は「教会」について記されている2章11~18節を読むことにいたします。
11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
以前と今
11~13節は、前回もお伝えしました「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」構文です。ただ、ここは少々変則的で、原文では「以前(ポテ / ποτέ)~・今や(ニュニ / νυνὶ)~・以前(ポテ / ποτέ)~」という形になっています。「以前」については、異邦人キリスト者に対して、合計すると7つのことが言われていると思います。
- 肉によれば異邦人であり、割礼のない者と呼ばれていた。(11節)
- キリストと関わりがなかった。
- イスラエルの民に属していなかった。
- 約束を含む契約とは関係なかった。
- この世の中で希望を持っていなかった。
- 神を知らずに生きていた。(以上12節)
- 遠く離れていた。(13節)
それに対して、「『今や(ニュニ / νυνὶ)』キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)と、洗礼によって変えられた異邦人キリスト者の姿が伝えられています。ここで「近い者となった」というのは、「神に近い者となった」ということです。
一つとされる両者
14節以下では、神に近い者となった異邦人キリスト者が、教会において、キリストの故にユダヤ人キリスト者とも近くなったことを述べています。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が「こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げ」(15節)とされています。この「双方(デュ-オ / δύο)」が、14節(新共同訳では「二つのもの」)と16節(同「両者」)と18節(同「両方のもの」)において、「アンフォテロイ / ἀμφότεροι」という言葉となって、すべて冠詞を伴って並列的に3回記されています。これについて『ギリシア語新約聖書釈義事典』の同語の項目では、以下のように述べています。
双数の代名詞的形容詞。(中略)エフェ2:14、16、18では、冠詞を伴った ἀμφότεροι は、今や、キリストにおいて一つにされているものが以前は分けられていたことを強調する。
このように「以前~今や」のことが強調されています。確かに、この冠詞を伴った並列的な書き方は、そういうことを伝えたいのだと思います。本コラムでは、フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書を貫通する「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」という構文があることをお伝えしてきました。フィレモン書を含むパウロの真性書簡においては、この構文は「人生におけるキリストにあっての大きな転換」を意味していました。コロサイ書においては、この構文は「洗礼の前後」を意味していました。そしてエフェソ書のこの箇所においては洗礼を前提としつつも、「異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者という『以前』は分けられていた両者が」、「『今や』キリストにおいて一つにされること」を意味していることが明らかにされました。それが、「キリストによる平和の福音によって両者が一つの霊に結ばれる」ということなのです(17~18節)。
教会論を述べるエフェソ書
今回の箇所では、その両者が一つにされる場所が教会であり、おそらくパウロの時代の家の教会からは教会が拡張された時代の具体的な課題として、それが記されているのだと思います。「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」の構文は、フィレモン書での「(キリストの)役に立つ者」になった(第10回参照)という「オネシモ個人の変革」に対してなされていた表現から、コロサイ書での「キリストに結び付く洗礼」に対してなされた表現を経て、エフェソ書においては「異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の一致」という「拡張された教会における具体的な在り方」に対してなされる表現へと、表現内容が変遷している様がうかがわれます。言い方を変えれば、「個人の変革」を述べているフィレモン書から、「キリスト論」を述べているコロサイ書、「教会論」を述べているエフェソ書という変遷でもありましょう。
エフェソ書においては、この「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」構文は、5章でもう一度使われています。当該箇所をお伝えするときに、「エフェソ書の以前と今」(2)としてお伝えしたいと思います。(続く)
※ フェイスブック・グループ【「パウロとフィレモンとオネシモ」を読む】を作成しました。フェイスブックをご利用の方は、ぜひご参加ください。
◇