3回にわたって、エフェソ書の著者がオネシモであると考えていることをお伝えしてきました。しかし、本コラムはこのことを主張するのが目的ではなく、「フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書」が「パウロ―フィレモン―オネシモ」というライン上にあり、そのつながりで3書を読むこと、すなわち、この3書を通して示されているメッセージは何なのかを見いだすことを目指しています。そういう観点で、これからはフィレモン書、コロサイ書に続き、エフェソ書を読んでまいりたいと思います。今回は1章1~6節についてお伝えします。
1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
1節に「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」とあります。新改訳2017ではこの節の注に、「異本に『エペソへ』を欠くものもある」と入れています。これは、新約聖書の写本の中には「エフェソに」が記されていないものもあるということです。このことから、この書簡は特定の教会宛ての手紙ではなく、不特定地域に宛てられた小冊子であるとする論もあります。私はその議論に立ち入るつもりはなく、この書簡は「今日の私たちに神様から与えられているものである」と捉えています。
さて、その後の「聖なる者たち(単数形=ハギオス / ἅγιος)」についてです。私は、この言葉は冒頭で述べた「フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書」というつながりの中にあり、そしてそれは「善い業(アガソス / ἀγαθός)を行うこと」という3書に共通することとの関連で書かれていると考えています。ともあれ、フィレモン書に記されている2つの「聖なる者」と、コロサイ書に記される6つのうち3つの「聖なる者」を見てみましょう。
というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです(フィレモン5)。
兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです(同7)。
コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(コロサイ1:2)
あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。(同1:4)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐(あわ)れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(同3:12)
私は、フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一と考えています。そうしますと、上記の「聖なる者たち」と複数で示されている4つは、同じ相手を指していることになります。コロサイ教会に集う人たちのことを「聖なる者たち」と言っているわけです。
「聖なる者」を「聖徒」と翻訳している聖書もあります(新改訳2017、口語訳など)。ところで、韓国の教会では教会に集う人のことを「聖徒(ソンド / 성도)」といいます。日本における「信徒」に該当する言葉です。韓国語の聖書は通常「聖なる者、聖徒」の原語である「ハギオス / ἅγιος」を「ソンド / 성도」と翻訳していますので、韓国の教会は聖書に忠実であるといえます。日本では教会に集う人を「聖徒」と呼ばないのはなぜでしょうか。私の想像ですが、「私たちは聖なる人間ではない」という意識があるからではないでしょうか。
しかし、「聖徒」といっても聖人を意味するのではなく、イエス・キリストにあって赦(ゆる)されている者という意味です。1章4節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とあります。「聖なる者になるよう、キリストにおいて選ばれた」という意味であり、それはすなわち、キリストにおいて赦された者ということがエフェソ書においても強調されています。
そして、上記コロサイ書3章12節に示されているように、「キリストに赦されている聖なる者」であるが故に、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」ということであり、それは「善い業を行うこと」という3書に通じることと関連しています。これからエフェソ書を読んでいきますが、今後もこのことを注視していきたいと思います。いずれにしましても、私は、「聖なる者」という言葉は3書を貫通している言葉だと考えています。
3~6節は、原文ではひとつながりの文になっていますが、3節を見てみたいと思います。3節は、聖書協会協同訳では「私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し」と翻訳されています。ここには「eulog / εὐλογ」という語幹の単語が3回記されています。「ほめたたえられますように」と2つの「祝福」です。
日本語においては、「ほめたたえられますように」は下位の者が上位の者に使う言葉であり、「祝福」は一般的に上位の者が下位の者に対して行う行為です。意味は同じですが、使う者の立場によって言葉が変わってくるのです。しかしギリシャ語においては、上位と下位によって言葉の区別がなされません。人間が神に対して行う行為と、神が人間に対して行う行為の別はありますが、同じ語幹の単語が3回使われているということです。
創世記12章の、主がアブラハムに対して言われた言葉においても似たようなことがあります。
1 主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)
ここでは「祝福(バーラク / ברכ)」という言葉が5回使われています。ところがヘブライ語のこの言葉も、上位と下位によって区別がなされないのです。ですから、3節の「あなたを祝福する人」は、「あなたをたたえる人」もしくは「あなたを尊敬する人」と捉えると、日本語としては分かりやすいと思います。この1~3節の主の言葉は、神様とアブラハムとその子孫の間において、相互に尊重し合うことが意味されているのです。
そうしますと、エフェソ書1章3節も、神と人間が相互に尊重し合うことが、「ほめたたえられますように」と「祝福」ということばで示されているのだと思います。(続く)
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