本コラムでは、パウロの真性書簡と擬似書簡についてお伝えしています。真性書簡とは「パウロ自身の手による書簡」であり、擬似書簡とは「パウロ以後にパウロの弟子たちがパウロの名前によって書いた書簡」ということです。今日の聖書学においては一般的に、ローマ書、第1コリント書、第2コリント書、ガラテヤ書、フィリピ書、第1テサロニケ書、フィレモン書が真性書簡であり、エフェソ書、コロサイ書、第2テサロニケ書、第1テモテ書、第2テモテ書、テトス書は擬似書簡であるといわれています。ただし、13書簡すべてを真性書簡とする立場もあることも併記しておきます。
擬似書簡とされるもののうち、今回から取り上げるエフェソ書は、最も早くから真正性が問われ、18世紀末にすでにそれを疑問視する声がありました。19世紀には少なからぬ擬似書簡説が出されています。しかしもちろん、20世紀、そして21世紀の現在においても、「真性書簡である」とする説が出されてもいます(ルドルフ・シュナッケンブルク著『EKK新約聖書註解(10)エペソ人への手紙』15~16ページ参照)。
私は、エフェソ書はコロサイ書と同様、擬似書簡であり、「コロサイ書の著者はフィレモン、エフェソ書の著者はオネシモ」という説を立てていることをこれまでお伝えしてきました。前者については私自身の推論でありますが、根拠については前回お伝えしました。しかし後者、つまり「エフェソ書の著者はオネシモである」という主張については以前からあるものです。
イギリスのP・N・ハリスンは、1964年に出版された『Paulines and Pastorals』において、「かつてコロサイでフィレモンの奴隷だったオネシモは、エフェソの集会で主導的な役割を果たしていた」(31ページ、第8回参照)として、次のように述べています。
オネシモスは確かにエフェソ書の著者であり、感受性が強かった青年時代に、パウロ本人と親密にしていたという貴重な利点がありました。彼がパウロの心の深層に理解を示しているのも不思議ではありません。彼の手紙と、トラヤヌス時代(在位98~117年)に入手可能だった、使徒行伝と諸報告の物語を通してのみ使徒を知っていた誰よりも、深くパウロの心を理解していたからです(同書37ページ)。
つまり、フィレモン書ではパウロの思いとして記されている、「わたしの子オネシモ」(同書10節)、「わたしの心であるオネシモ」(12節)、「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)ということが、オネシモとすれば、「感受性が強かった青年時代に、パウロ本人と親密にしていたため、パウロの心を深層まで知っていた」ということです。だから「パウロの名前によって書簡を書くことができる」というのが、ハリスンの「エフェソ書オネシモ著者説」の強い理由だと思うのです。
しかし、先述のシュナッケンブルクは、エフェソ書の著者について、「ハリスンなどが提案したオネシモ著者説はほとんど問題にならない。イグナティオス時代の同名の、エペソの司教(イグナティオスの手紙―エペソのキリスト者へ1:3)は、確かにパウロによって回心した奴隷オネシモ(ピレモンとコロサイ4:9)ではない。これはよくある名前だった」(同書31、433ページ)としています。
しかし、「オネシモという名前がよくあるものだった」としても、エフェソの司教オネシモとフィレモン書のオネシモを別人と断言して片付けるべきではないと思います。詳しくは今後お伝えする予定ですが、フィレモン書は牧会書簡(第1・2テモテ書、テトス書)を除くパウロ書簡集の結びとして置かれているのであって、その位置付けは重たいと思います。私はフィレモン書のオネシモとエフェソの司教オネシモは同一だと考えており、むしろそう断言してよいのではないかとさえ思っています。
キリスト新聞社の『新聖書大辞典』(1971年刊)における「オネシモ」(木下順治執筆)の項には以下のようにあります。
オネシモは希望どおり(ピレ12節)パウロのもとに送りかえされ、パウロのよい同労者となったと思われる。第1世紀の末イグナティウスがエペソに書き送った手紙(エペソのキリスト者へ1:3、2:1、6:2)には、「エペソの監督オネシモ」となっている。このオネシモは奴隷オネシモが立派になった姿であり、彼は各地の教会に送られたパウロの手紙を集めて、パウロ文集を刊行したと言われている。
さらに木下順治は、1986年に『パウロ―回心の伝道者』を上梓しており、その中の「獄中の一挿話―オネシモの入信」で以下のように述べています。
さて二世紀の初期に活躍したイグナティウスの「エペソへの手紙」に、オネシモという名の監督がいる(エウセビウス「教会史」Ⅲ36・5、筆者引用=「イグナティウスは、ポリュカルポスのいたスミルナに来たとき、エペソの教会宛にそこの牧者であるオネシモの名を上げた一通の手紙を書いた。エウセビオス『教会史』上201ページ」)。これはおそらくあの奴隷だったオネシモと同一の人物であると考えられる(グッドスピード、J・ノックス、C・L・ミトン)。エペソの教会はパウロの去ったあとテモテに託せられたが、テモテの殉教後はオネシモが牧者となったのであろう。おそらくオネシモが牧者となったのは紀元90年代で、彼はパウロの恩義を思い、当時パウロが広く教会の人々から忘れられていることをひどく嘆いた。そして彼は、パウロが各地の教会に送った手紙を苦心して収集し、遂に「パウロの手紙集」を編集した。(183ページ)
私は、木下順治がグッドスピード、J・ノックス、C・L・ミトンの説を元に述べている「フィレモン書のオネシモとエフェソの司教(監督、牧者)オネシモは同一」であるということが、前述したように正しいと考えています。それ故、シュナッケンブルクの「エペソの司教は、確かにパウロによって回心した奴隷オネシモではない」とする論は退け、ハリスンの「エフェソ書の著者はオネシモ」を支持するのです。
今回はさまざまな著作の紹介が中心となりましたが、次回もう一度それをすることをお許しください。次回はグッドスピード、J・ノックス、C・L・ミトンの説の紹介とともに、「パウロ小書簡集の冒頭にエフェソ書が置かれているのはなぜか」という観点からも、「エフェソ書の著者はオネシモ」ということを論じる予定です。(続く)
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