今回はコロサイ書3章18節~4章1節を読みます。
18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
家庭訓
この部分は「家庭訓」または「家庭道徳訓」といわれ、挿入と考えられます。前回、3章16~17節の「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」は、礼拝行為がさまざまな言葉としてちりばめられている箇所だとお伝えしました。エードゥアルト・シュヴァイツァーによりますと、「家庭道徳訓は、(教会での)日常における礼拝へ教会員全員に対して呼びかけることによって挿入される。この礼拝によって教会員は皆、宣教と教えと牧会と讃美のための供物へと召される(3:16~17)」のです(『EKK新約聖書註解(12)コロサイ人への手紙』185~186ページ)。教会での礼拝行為から家庭での業へと進むよう、訓戒の挿入がなされているということです。
前回提示しましたように、3章17節と4章2節をつなげるならば、教会の礼拝行為としてスムーズな流れとして読めますが、3章18節~4章1節はその流れを断つような筆致となっており、私も挿入であると考えます。3章18~19節は「妻と夫」、20~21節は「子と親」、22節~4章1節は「奴隷(奴隷は家族の一員であった)と主人」の間においての訓戒です。旧約聖書の十戒には、「あなたの父と母を敬え」という、子の親に対する戒めがありますが、ここでは「妻と夫」「子と親」「奴隷と主人」という相互関係の訓戒に拡大されています。家庭訓は、当時の地中海世界に広まっていた訓示や心得に影響を受けているともいわれます。また家庭訓は、パウロの真性書簡には見られないものです。コロサイ書の「子の書簡」であるエフェソ書には、さらに拡大されたものがあります(5章21節~6章9節)。第1ペトロ書にも類似したものがあります(2章18節~3章7節)。
著者アフィアという推測
私がコロサイ書の著者をフィレモンと考えていることは、すでに何度もお伝えしてきました。その論拠は以下の3点です。
- コロサイ教会の牧者であるフィレモンが、コロサイ教会に問題が起きた際にパウロの言葉として手紙を書き、問題を解決しようとしたと考えられる。
- コロサイ書はフィレモン書をよく知っている人物によって書かれた書簡であり、フィレモン書を最もよく知っている人物は、他でもないフィレモンである。
- エフェソ書の著者がオネシモであるという説は以前から存在し、根拠のあるものであるが、「親・子・孫」の関係にあるフィレモン書、コロサイ書、エフェソ書において、パウロとオネシモの間に入る人物は、他でもないフィレモンである。
私は、コロサイ書3章18節~4章1節の家庭訓は、フィレモンの妻であるアフィアが書いたと推測しています。推測ですから、その論拠を上記のように確固として提示するまでにはいきません。あくまでも推測の域を出ないのですが、しかしそう考えています。ただ、家庭訓が上記のように挿入であるならば、手紙の著者とは別の人物が書いたことは想定できます。そして、18節の「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」に私は注目しています。これをもし男性のフィレモンが書いたとするならば、かなり高圧的です。しかし、女性のアフィアが書いたのであれば、それは謙遜の一つの在り方と捉えることができるかもしれません。これをもって「アフィアが家庭訓を書いた」という論拠にまではならないと思いますが、私はそのようにも考えています。
また、第3回でお伝えしましたが、フィレモン書の冒頭に宛名人としてフィレモンとアフィアが出ていることは、アキラとプリスキラを範とする、初代教会の夫婦牧会者の事例であり、アフィアもフィレモンの家の教会=コロサイ教会に対する責任を負っていたということはいえると思います。以上のような点から、ぼんやりとではありますが、この箇所はアフィアの手によるものではないかと考えています。
弱者の尊重
「妻と夫」「子と親」「奴隷と主人」という3つの対に対する家庭訓は、「妻・子・奴隷」という弱者の側が先に出ていることに一つの特徴があります。マタイ福音書の5千人の供食の話では、5千人とはいうものの「女と子供を別にして、男が5千人ほどであった」(マタイ14:20)とあり、新約聖書の時代は、女や子ども、奴隷はその存在自体が重要視されていなかったと考えられます。そのような中でパウロが「(キリストに結ばれて)ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)と書いていることは、画期的なことであると思えます。コロサイ書もその思想を受け継いでいるのでしょう(3章11節も参照)。「妻→夫」「子→親」「奴隷→主人」という順序が、弱者の尊重を示しているのかもしれません。もっとも「夫・父親・主人は同一である」ともいえます。
「不義を行うものはその不義の報いを受ける」
ゲルト・タイセン著『新約聖書』の中の「コロサイの信徒への手紙」(198~200ページ)は大変示唆に富んでおり、「コロサイの信徒への手紙とフィレモンへの手紙は一体である」と書き出されています。私は第2回で「『フィレモン書』が『第1コロサイ書』、『コロサイ書』が『第2コロサイ書』であってもよいはずなのです」とお伝えしました。ですから、タイセンのこの見解にはうなずくことができます。
この章の最後部に以下のようにあります。
奴隷への勧告においては、あたかもフィレモンへの手紙が一定程度撤回されるべきであるかのような印象がある。コロサイの信徒への手紙の奴隷に対する勧告はこうである。「不義を行う(アディケオー / ἀδικέω)者は、その不義(同)の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません」(3:25)。すでにフィレモンへの手紙が奴隷たちの間に、彼らが日々繰り返す主人たちとの衝突に関して、何時(いつ)でも教会が彼らの側に立ってくれるのだという過大な期待を生み出してしまっていたのだろうか。(200ページ)
これは、パウロがフィレモン書18節で「彼があなたに何か損害を与え(アディケオー / ἀδικέω)たり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」と書いていることを、フィレモンの家の教会=コロサイ教会が受け入れ、奴隷たちと主人たちの間で衝突があった場合、いつも教会は奴隷の側に立ってくれるのだという期待を奴隷たちが持っていた可能性について述べているものです。こうした「過大な期待」を抑制するため、コロサイ書は「不義を行う(アディケオー / ἀδικέω)者は、その不義(同)の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません」と書いているのではないだろうか、とタイセンは推測しているのでしょう。
私がなぜこのことをお伝えするのかというと、もしもタイセンの見解が当たっているならば、フィレモン書に記されている「彼があなたに何か損害を与えたり」という部分は、コロサイ書によって承認されていることになります。そうなりますと、私がしばしばお伝えしている「オネシモがフィレモンに損害を与えているかどうかは仮定の話」ということが否定されてしまうからです。
私はタイセンのこの見解には同意しません。フィレモン書のアディケオー(「損害を与える」と翻訳されている)は、人間である主人に対するものですが、コロサイ書のアディケオー(「不義を行う」と翻訳されている)は、神に対するものだからです。「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません」(3:24~25)なのです。
前述のシュバイツァーの注解書には、25節について「奴隷たちに彼らもいつかは審(さば)き主の前に立つこと、そして彼らも単に神が特に自分たちに味方してくれることを望むべきではないことを思い出させていよう」と記されています(192~193ページ)。「神のもとでは奴隷も自由人もすべて平等」ということを意味しているのです。
次回は、フィレモン書の主人公であるオネシモが、コロサイ書において再登場します。私の本コラムの要になる部分です。オネシモ再登場の意味を考えてみたいと思います。(続く)
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