今回は、コロサイ書2章13節b~23節を読みます。なお、20節と21節については、ギリシャ語原典に則して、新共同訳では21節に入れられている「戒律に縛られているのですか」の部分を20節に移動した表現にしています。
神は、わたしたちの一切の罪を赦(ゆる)し、14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、戒律に縛られているのですか。21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」。22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
今回の箇所は、第20回でお伝えした、1章15~20節に記されている当時の教会で歌われていた「キリスト賛歌」が基調になっていますので、それを再度掲載します。
15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18 また、御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
それでは、今回の箇所についてお伝えしたいと思います。2章13節b~14節はキリストの十字架、15節はキリストの復活と被挙(昇天)による勝利について書かれています。
14節の「規則(ドグマ / δόγμα)」は、20節の「戒律に縛られる(ドグマティゾー / δογματίζω)と語幹が同じです。「戒律に縛られる」の「戒律」とは、具体的には21節に記されていることです。ですから14節の「規則」とは、「手をつけるな。味わうな。触れるな」という規則のことでしょう。その「規則」によって「わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書」を、神は十字架に釘付けにして廃棄してくださったと述べています。同じような表現が、ガラテヤ書3章13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖(あがな)い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」とあります。つまり「コロサイ教会とラオディキア教会で問題になっていた偽哲学の『規則』が、旧約の律法とはまったく同一とはいえないにしろ、そのような次元のものとされたため、『律法の呪い』と同じように十字架につけられたのだ」ということでしょう(エードゥアルト・シュヴァイツァー著『EKK新約聖書註解(12)コロサイ人への手紙』129~130ページ参照)。
そしてそればかりか、復活と被挙の勝利によって、「もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」と続けられているのです。キリストの天への凱旋行進が語られています。凱旋行進とは、元来はローマ皇帝の勝戦の行進のことです。しかしキリストの天への凱旋行進は、それに勝るものだということです。実はこの背景には、ローマ皇帝ガイウス(カリグラ)の自己神格化があるといわれています。新約聖書学者の大貫隆氏は、『終末論の系譜―初期ユダヤ教からグノーシスまで』(青木保憲氏の書評コナー「神学書を読む」の第44回でも取り上げられている)の中で、「コロサイの信徒への手紙はその自己神格化のさらに背後にある支配のイデオロギーを換骨奪胎しようと意図しているのである」(283ページ)とした上で、以下のように述べておられます。
ローマ帝国から見れば取るに足りないような片隅で起きた一つの歴史的な処刑事件が、今現に宇宙万物をささえる力となっていると信じられているのである。「(神は)その十字架の血によって平和を打ち立てられて、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」(1章20節)。「(神は)もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(2章15節)。
十字架のキリストこそが、ローマ皇帝を凌(しの)ぐ絶対君主であり、全世界の制圧者なのである。ローマ帝国支配を支えている世界観とイデオロギーに対するこれ以上の反対命題はないと言えよう。(同書288~289ページ)。
偽哲学の吹聴する「支配と権威」は、キリストの十字架と復活と被挙によって打ち破られたというのですが、それはローマ皇帝の神格化による支配という、初期キリスト教の背景にあった構造を打ち破るものでもある、とコロサイ書は述べているということでしょう。大貫氏はそれを「コロサイ書はローマ皇帝の自己神格化のさらに背後にある支配のイデオロギーを(批判しつつ凌駕するものとして=筆者加筆)換骨奪胎しようと意図している」と述べているのです。
ともあれ、「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません」と述べられています。偽哲学の規則は十字架につけられて廃棄され、「世を支配する諸霊の支配と権威」は復活と被挙による凱旋行進によってさらしものにされたのだから、偽哲学の主張に従うことはないということです。「食べ物や飲み物のこと」とは、断食に関ることでしょう。断食、あるいは祭りや新月や安息日の遵守といった、偽哲学の主張することで、とやかく言われる筋合いはないということです。
17節で「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」と述べられていますが、ここで基調にされているのは、「キリスト賛歌」の「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」(1章16節)でしょう。また「支配や権威」は、偽哲学の主張する「世を支配する諸霊」のものではなく、キリストによって造られたものであるということでしょう。
「偽りの謙遜と天使礼拝」(18節)も、偽哲学の主張でしょう。それを主張する人たちは、キリスト信者でありながらも、「頭であるキリストにしっかりと付いていないのです」とされます。この「頭」も賛歌の「また、御子はその体である教会の『頭』です」が基調になっていると思われます。そして「頭にしっかりと付いていない」ということが、第25回でお伝えした「初期キリスト教のシンクレティズム(宗教混淆〔こんこう〕)」ということなのです。
さらに「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」と続きます。今回はここが大切になります。これは1章10節の「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」と同義か、極めて似た言葉だと思います。「成長する」と「実を結ぶ」は同じことです。コロサイ書が、コロサイ教会とラオディキア教会の偽哲学に対峙するものとして書かれたものだとしても、あるいはローマ皇帝の自己神格化のさらに背後にある支配のイデオロギーを換骨奪胎しようと意図して書かれたものだとしても、教会が「神に育てられて成長し実を結ぶ」ことが、最も大切なのだと思います。次回3章では、その内容が具体的に示されます。(続く)
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