本コラムは、以下のような幾つかの「見立て」をして、その視点で、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書を読んでいくものです。
- フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一である。
- フィレモンとアフィアはその教会の夫婦牧会者である。
- そこにエパフラス、アルキポという巡回宣教者がいた。
- フィレモン書は、パウロがフィレモンに奴隷オネシモの解放を願った手紙である。
- コロサイ書の著者はフィレモンである。
- エフェソ書の著者はオネシモである。
今回は、コロサイ書2章8~10節を読むことにいたします。
8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
さて今回からは、シンクレティズム(宗教混淆〔こんこう〕)が問題になります。この事例を、旧約聖書の列王記下17章に見てみましょう。
24 アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった。25 彼らはそこに住み始めたころ、主を畏れ敬う者ではなかったので、主は彼らの中に獅子(しし)を送り込まれ、獅子は彼らの何人かを殺した。26 彼らはアッシリアの王にこう告げた。「あなたがサマリアの町々に移り住ませた諸国の民は、この地の神の掟を知りません。彼らがこの地の神の掟(おきて)を知らないので、神は彼らの中に獅子を送り込み、獅子は彼らを殺しています。」27 アッシリアの王は命じた。「お前たちが連れ去った祭司の一人をそこに行かせよ。その祭司がそこに行って住み、その地の神の掟を教えさせよ。」28 こうして、サマリアから連れ去られた祭司が一人戻って来てベテルに住み、どのように主を畏れ敬わなければならないかを教えた。29 しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。30 バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、31 アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。32 彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。33 このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。
ここに記されている人たちが「サマリア人」になっていくのです。サマリア人は、ヤハウェ信仰も持っていましたが、他の5つの神々にも仕えていたのです。こういった信仰状態を「シンクレティズム(宗教混淆)」といいます。イエスの時代、ユダヤ人がサマリア人と仲が悪かったのは、サマリア人がシンクレティズム的な信仰をする「異端」であったためです。ヨハネ福音書4章を読みますと、イエスとサマリア人女性の会話が記されています。サマリア人女性の「わたしには夫はいません」という言葉に対して、イエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17~18節)と答えています。この5人の夫を、混淆した神々とする読み方もあります(カール・バルト著『ヨハネによる福音書』279ページ)。
初期キリスト教会にも、このシンクレティズムの問題がありました(ヘルムート・ケスター著『新しい新約聖書概説(上)』220~221ページ)。コロサイ書で問題にされている偽教師たちも、こういった人たちであったのでしょう。2章18~19節に「こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです」とありますから、偽教師たちもキリスト信者ではあったのです。キリスト信者でありつつ、特に当時の密儀宗教の儀式をも信仰の条件としていた人たちであったと思われます。
8節に、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」とあります。ここで言われている「哲学」とは、人間と世界を熟考する哲学ではなく、2章17節に記されている「幻として見たことを頼りとした肉の思い」のことであろうかと思われます。密儀宗教の中にそのような思想があったのかもしれません。それは「むなしいだましごと」なのです。「キリストに従うもの」ではなく、「世を支配する霊に従うもの」なのです。偽教師たちは、そのようなものにも従うことを説いていたのだと思われます。
それに対して、9~10節には「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」とあります。これは、本コラムの第20回でお伝えした1章15~20節に登場する「キリスト賛歌」を基にしたものです。「あなたがたは、キリストにおいて満たされている」のだから、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と説いているのです。
私たちは、「キリストに結ばれ、キリストに根づき、キリストにおいて満たされて」います。ですから、「キリスト」だけでよいのです。列王記下で伝えられているような、あるいはコロサイ書で伝えられているようなシンクレティズムに陥る必要はないのです。しかし同時に私たちは、シンクレティズム的な信仰により異端とされていたサマリア人を「隣人としなさい」とイエスから言われており(ルカ10:25~37)、また「あなたがたは力を受け・・・サマリアの全土でわたしの証人となる」とも言われています(使徒1:8)。このサマリアへの伝道を語られたイエスの言葉に聞き、異なる信仰を持つ人たちを憎んだり排除したりするべきではないとも思わされます。(続く)
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