本コラムの第2回と第18回でお伝えしたように、オネシモとエパフラスに関することから、フィレモンの家の教会(フィレモン2)とコロサイ教会(コロサイ1:2)は同一の教会であると私は考えています。フィレモンとアフィアが自分の家を教会とし、そこで巡回宣教者エパフラスが福音を伝え(コロサイ1:7)、エパフラスが去った後にはやはり巡回宣教者アルキポ(フィレモン2)が来て、フィレモンとアフィアと共に福音を伝えていたという構想を描いています。フィレモン書は、アルキポが滞在していた際に書かれたものです。
では、コロサイ書受領時にアルキポはどうしていたのか、という疑問が出てきますが、第4回でお伝えしたように、「アルキポに、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』と伝えてください」(コロサイ4:17)とありますから、アルキポはすでにそこにはいないことになります。いればこの手紙を読むでしょう。「伝えてください」と言うのですから、近隣の教会のどこかにいたのでしょう。そのようなことが、フィレモン書とコロサイ書の背景にあると考えています。
さて、今回はコロサイ書2章1~5節を読みます。
2:1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。4 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
1節に「ラオディキアにいる人々」とありますが、ラオディキアはコロサイから15キロほど西にある町です。コロサイ書4章16節から、ラオディキアにも教会があったことが分かります。ラオディキア教会は、ヨハネの黙示録3章14~22節にも登場します。ラオディキアから北に約10キロ、コロサイから北東に約20キロのところにヒエラポリスという町があり、コロサイ書4章13節から、ヒエラポリスにも教会があったことが分かります。コロサイ書の写本の中には、少数ではありますが、2章1節のこの箇所にもヒエラポリスと書かれているものもあるようです(『ティンデル聖書注解 コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙』100ページ)。
4章16節に「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください」とありますから、この手紙はラオディキア教会にも回されます。このように、コロサイ書はコロサイ教会だけでなく、ラオディキア教会にも向けられているものです。ですから両教会に共通する問題があったと見ることができます。その問題が展開されているのが2章です。問題とは、グノーシス主義、黙示文学的ユダヤ教、ヘレニズム哲学などといわれていますが、特定することはできないようです。4節には「あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」と、そういった教えを説く人にだまされないようにとの警告がなされています。
私が考えていることは、これらの教えを説く人たちは、エパフラスやアルキポのような巡回宣教者ではなかったのかということです。ただし、それは偽の巡回宣教者です。なぜそのように考えるのかと言いますと、新約聖書の中に、やはり偽の教えを説く巡回宣教者が見られるからです。それは第2ヨハネ書の中に顕著です。第2ヨハネ書7~11節には以下のようにあります。
7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
ここで問題にされている「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない人」というのは、グノーシス主義者といわれ、それは巡回宣教者なのです。10節には、「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません」とありますが、家とは家の教会でしょう。コロサイ書で問題にされている人たちも、そのような偽巡回宣教者であったのではないかと私は考えています。コロサイとラオディキアの両教会に、彼らの「巧みな議論にだまされないように」と警告しているのがこの手紙なのです。偽巡回宣教者たちが教会に入ったのか、近辺に滞在していたのかは分かりません。
5節には、「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」とあります。パウロは、「使徒の到来」と呼ばれる「手紙を宛てた人と共にいることが、個人的な権威ではなく、使徒としての権威を伝えることになるという手法」を、手紙において使っています(『原始キリスト教の書簡文学』82ページ)。コロサイ書がお手本にしているフィレモン書では、22節の「ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです」が、それに当たると思います。コロサイ書2章5節が、それに依拠しているように思えるのは、大変興味深いことです。
少し逸れますが、村瀬俊夫牧師が永眠されたことを、クリスチャントゥデイが8月20日付の記事で報じました。私が東京の教会に在任していたとき、村瀬先生はすぐ近くの教会を牧会されており、1年に一度交換講壇礼拝をさせていただくなど、大変お世話になりました。村瀬先生はクリスチャントゥデイにヨハネ書講解を連載されており、その中に上記の第2ヨハネ書の講解もあります。そこで以下のように書かれており、興味深く読ませていただきました。
7節以下にも少し触れておきます。「人を惑わす者」と言われ、「反キリスト」と決め付けられているのは、グノーシス異端のことです。この異端の背後には、肉体を蔑視し霊魂のみを重視する《霊肉二元論》を特色とするギリシャ思想がありました。それでイエスが肉体を持つ人として来られた神であることを否定し、イエスの肉体の死も復活も認めないのがグノーシス異端の立場でしたから、「反キリスト」と言われているのです。10節に、このような異端者が来るときには、「家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と言われています。そういう行為は、「敵をも愛せよ」と言われるイエス様の教え(→ルカ6:27)と矛盾しないのでしょうか。私たちは異端の教えを憎みます。しかし、異端者をも異端の教えと同じく憎んでもよいものでしょうか。読者のあなたは、どう思われますか。
「私たちは異端の教えを憎みます。しかし、異端者をも異端の教えと同じく憎んでもよいものでしょうか」。この問いに対し私は、「憎んでよいものではない」と申し上げます。「家に受け入れてはいけません」というのは、上記のように、教会に誤った教えを入れてはいけないということです。その人を憎むものではないのです。コロサイ書も、異端的思想を取り上げていますが、それは、教会で教えられるべきものは異端的思想ではなくキリストの福音であるということであって、それを教えている人を憎むようなものではない、と私は思います。(続く)
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