今回は、前回の続きとなるコロサイ書1章11~12節を読んでみたいと思います。ここは具体的な祈りの言葉です。新共同訳は両節を分けて記載していますが、両節を分けていない聖書協会共同訳の方が日本語として自然だと思いますので、後者から掲載します。
11~12 また、あなたがたが神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くすように。また、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父(おんちち)に、喜びをもって感謝するように。(聖書協会協同訳)
最初に「あなたがたが神の栄光の力に従い」とあります。この「神の栄光」という言葉は、パウロの真性書簡においてしばしば出てきます。ローマ書5章2節の「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」はよく知られていると思います。パウロが「信仰・愛・希望」の「希望」を言うとき、それは「神の栄光にあずかる希望」なのです。続くローマ書5章3~4節には、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」とあります。つまりパウロは、「苦難の中にあっても、神の栄光にあずかる希望をもって忍耐しつつ歩みましょう」と言っているのです。コロサイ書でも、そうしたパウロの言葉は伝えられていて、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くすように」と書かれています。ここでの「寛容」は、「忍耐」とほぼ同義と考えてよいと思います。つまり「神の栄光に向けての忍耐」ということが言われているのです。
なぜ、神の栄光が忍耐につながるのでしょうか。私は旧約聖書の記述によるものだと考えています。旧約聖書には、神の栄光と言われるものの記述が多数あります。出エジプト記で伝えられている「雲の柱・火の柱」が神の栄光を代表するものでありましょう。出エジプト記の一番終わりの部分に、次のようにあります。
雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。(40:34~38)
出エジプトの民は、シナイの荒れ野で時々キャンプを張るのです。聖書には宿営とあります。臨在の幕屋とは、キャンプ地の中央に作られた聖所です。荒れ野では、進む民の先頭に立っていた雲の柱・火の柱は、キャンプを張ったときには臨在の幕屋の上にとどまります。出エジプト記では、これを「神の栄光」と伝えています。民の先頭を進んだ雲の柱・火の柱、葦(あし)の海を渡るときには先頭を行った火の柱、最後尾に付いた雲の柱は、「神の栄光」なのです。
時が過ぎてソロモン王の時代、神の栄光は密雲として神殿の上にとどまります。神殿奉献について書かれた列王記上8章10~11節には、「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」とあります。列王記だけを読みますと、神の栄光は雲として登場するのみですが、歴代誌では雲として現れた後に火としても現れます。歴代誌下7章1節には神殿奉献の際、ソロモン王が祈り終わった後のこととして、「ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献(ささ)げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた」とあるのです。「雲と火」というと、出エジプトの「雲の柱・火の柱」と同じです。
このように、出エジプトの時代と、ソロモン王が建てた第一神殿といわれる神殿の時代には、神の栄光は雲または火として現れるのですが、神の栄光はいずれの時も民を守ります。出エジプトの民が荒れ野を進むときには民を導き、葦の海を渡ったときには先頭に立ち、また最後尾に付き、宿営をするときには臨在の幕屋を覆ったのです。そのようにして、エジプトを出たイスラエルの民が、どんな時も守られたのです。ソロモン神殿においても、栄光の姿として現れた神はソロモン王に次のように語られます。
わたしはあなたの祈りを聞き届け、この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした。わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦(ゆる)し、彼らの大地をいやす。(歴代誌下7:12~14)
世界は今まさにコロナ禍の下にありますが、こういった疫病や干ばつ、そしていなごの大量発生といった災害は昔から存在していたものなのです。栄光として現れた神は、「わたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす」と言われるのです。つまり神の栄光とは、ここにおいても「人間を守ってくださる存在」なのです。
ソロモン王の後、イスラエルは南北に分割されます。旧約聖書の記述において中心になっているのは南王国ユダです。やがてユダの民は、主だった者たちがバビロンに移住させられるのですが、神の栄光もそこに移動します。そのことを記しているのがエゼキエル書です。神の栄光はユダの民が故国へ戻ると、第二神殿といわれる再建された神殿に現れます。それを記しているのが、第三イザヤ書といわれるイザヤ書56~66章です。いずれの時代においても、神の栄光は民を守ったのです。
神の栄光による守りがあるからこそ、民は忍耐することができるのです。パウロは、旧約聖書における神の栄光の記述について重々知っていたでしょう。だから、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:2~4)と、神の栄光に向けた忍耐を語るのです。擬似書簡であるコロサイ書においても、パウロの言葉として神の栄光に向けた忍耐が、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くすように」と語られているのです。
本コラムの第17回で、1章5節の「天に蓄えられている希望」についてお伝えさせていただきました。これはパウロが言う「時間軸を中心とした終末論」に該当する「希望」というよりも、「空間軸を中心とした終末論」に該当する「希望」であるということでした。平たく言うと、「コロサイ書では、希望は今、天にある」ということです。11節の「光の中にある聖なる者たちの相続分」というのは、この5節の「天に蓄えられている希望」とほぼ同義と考えてよいでしょう。「光の中」とは「天」を指していますし、「相続分」とは「蓄えられている希望」を指しているからです。つまり11~12節は、「神の栄光の守りにおいて忍耐を尽くすことは、天に蓄えられている希望にあずかることなのだ」という意味の内容が記されているのです。それは、「空間軸を中心とした終末論」に該当する「希望」、すなわち今の時点で希望にあずかることができるということです。
私たちが、今の苦難の状況の中で、神の栄光の守りにおいて忍耐するなら、今この時に、希望にあずかって、つまり希望を持って歩むことができるということが、11~12節には書かれているのです。コロナ禍という苦難の状況の中にあっても、神の栄光の守りが確信できるからこそ、終息するときを、希望を持って忍耐しつつ、待つことができるのです。(続く)
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