コロサイ書とエフェソ書は擬似書簡とされており、私は「コロサイ書の著者はフィレモンである」と考えていることを、これまで2回にわたってお伝えさせていただきました。そして、その根拠の一つとして、すでに出されている「エフェソ書オネシモ著者説」も取り上げさせていただきました。「コロサイ書フィレモン著者説」と、「エフェソ書オネシモ著者説の肯定」は、私の持論です。しかし、本コラムはそういった私の持論を展開することを目的とした場所ではありません。
ただ私は、「フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書」という系譜において、この3書を読んでいます。コロサイ書とエフェソ書の著者説とは別に、この系譜の関係性は今日、聖書学で認められていることです。そのように読む場合、どうしても「著者は誰か」ということを考えてしまうわけですが、そうなりますとやはり、フィレモン書に見られるパウロ→フィレモン→オネシモという師弟関係と、オネシモがエフェソ教会の監督になったという後日談から、私の考えでは「コロサイ書の著者はフィレモンであり、エフェソ書の著者はオネシモである」ということになるわけです。
ですから私としてはこの立場に立ちつつ、本コラムの目的である「パウロ以後の初代教会において、パウロ、フィレモン、オネシモという師弟関係の系譜が、どのような役割を果たしていたのか」を主眼に置きながら、この3書を読み進めていきたいと考えています。3書のうちのフィレモン書については、第14回までにおいて一通りお伝えさせていただきました。実はこのフィレモン書の分析も、本コラムの目的に従って、「コロサイ書、エフェソ書にどうつながるか」という観点から書かせていただきました。
今後も、著者問題についてただ私の持論を展開するのではなく、本コラムの目的をしっかり抑えつつ、この3つの手紙を読んでいきたいのです。なぜならば「3つの手紙を関連付けて読むことで、コロサイ書、エフェソ書の理解がより進んでいく」というのは、私自身の経験でもあるからです。ただし、本コラムでは便宜上、「コロサイ書の著者はフィレモン」として進めさせていただきます。
今回からはコロサイ書を取り上げます。「コロサイ書はフィレモン書からどう影響を受けているか、またエフェソ書にどう影響を与えているか」という観点から、進めていきたいと思います。それではまず、コロサイ書1章1~4節を、フィレモン書1~5節と比較しながら読んでみましょう(表1)。
<表1>
コロサイ1:1~4 | フィレモン1~5 |
---|---|
1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。 | 1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。 |
わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 | 3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 | 4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 |
4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 | 5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 |
このように見てみますと、コロサイ書1章1~4節は、フィレモン書1~5節ととてもよく似ていることが分かります。フィレモンはパウロから送られてきた、オネシモに関する願いの書かれた手紙(フィレモン書)を大切に手元に置いて、それを繰り返し読んでいたのではないでしょうか。そして、その内容を念頭において、コロサイ書を書き出したのではないかと私は考えています。コロサイ書の冒頭部分を、パウロの真性書簡といわれている7書(ローマ書、第1・第2コリント書、ガラテヤ書、ピリピ書、第1テサロニケ書、フィレモン書)の冒頭部分と比較してみますと、どの書よりもフィレモン書が似ていることが分かります。
ただ私は、この冒頭で差出人を「パウロと『兄弟』テモテから」としているのは、そこに「フィレモンと『姉妹』アフィアから」を重ねているように思えるのです。第15回と第16回で申し上げましたが、推測の域を出ないのですが、「アフィアがこの手紙の一部を書いている」と私は見ています。そうしますと、「『兄弟(アデルフォス / ἀδελφὸς)テモテ』と『姉妹(アデルフェー / ἀδελφῇ)アフィア』が重ねられている」とするのが、自然であるように思えるのです。
擬似書簡といわれる他の5書のうち、第2テサロニケ書は、パウロ、シルワノ、テモテが差出人となっていますが、これは第2テサロニケ書の親の手紙である、真性書簡・第1テサロニケ書とまったく同じです。それは「第2テサロニケ書は第1テサロニケ書とつながる書簡である」とするために、そのようにしたのだと考えています。擬似書簡の他の4書(エフェソ書、第1・第2テモテ書、テトス書)は、差出人がパウロ単独になっています。これは、これらの書簡は共同差出人を明記する必要がなかったためだと思います。7つの真性書簡はすべて連名で書かれており、パウロ自身は連名で書く習性があったのでしょうが、擬似書簡のうち第2テサロニケ書は理由があったからこそ連名になったのであり、コロサイ書以外の他の擬似書簡の差出人はパウロ単独ということになっているのです。
そうしますと、コロサイ書が連名で書かれていることからは、「その必要性があったからこそ連名表記になったのだ」と思わされ、この連名表記には「『フィレモンと姉妹アフィア』という2人の真の著者が隠されているのではないか」と、思えてならないのです。
さてそのように、コロサイ書は1章4節まではフィレモン書の5節までととてもよく似ているのですが、コロサイ書の次の部分1章5節は、フィレモン書の次の部分である6節と微妙に違ってきます。コロサイ書1章5節は1章4節と、フィレモン書6節は5節とつながっていますので、表1と一部重複しますが、コロサイ書1章4節とフィレモン書5節を併記し、さらに参考並行箇所として第1テサロニケ書1章3節も加えて読んでみましょう(表2)。
<表2>
コロサイ1:4~5 | フィレモン5~6 | 1テサロニケ1:3 |
---|---|---|
4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 | 5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 | 3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、 |
5 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 | 6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 | また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 |
私は、パウロの伝えたいことの核心は「信仰・愛・希望」であると捉えていて、牧師としてパウロを語るときには、「信仰・愛・希望」の切り口で語ります。それが一番伝えやすいと思うからです。私が牧会する教会の教会学校に通う生徒たちも、この「信仰・愛・希望」という言葉を大切にしています。ここでは「信仰・愛・希望」ということについて考えてみましょう。
表2が示す通り、第1テサロニケ書では、この「信仰・愛・希望」が冒頭で提示されています。「信仰による働き」「愛の労苦」「希望を持った忍耐」とされています。これについて、松永晋一著『テサロニケ人への手紙』の1章2~4節の注解には、以下のように書かれています。
「信仰の働き」としての「愛の労苦」は、いつまでも存続するものとして、将来の終末的希望と結合し、それは不撓不屈(ふとうふくつ)の「忍耐」を可能とする。ここでは、そのことが「希望の忍耐」として、言い表されている。「希望」はユダヤ教徒にとって、全く未来の黙示的・終末的メシアに対する希望であった。しかし初期キリスト教徒と使徒パウロにとって、希望は間近に起こる将来の出来事として期待されている主イエスの来臨に集中していた(中略)。この意味において、ここでは特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望の忍耐」として言い表されている。(44ページ)
パウロがこういった文脈で「希望」と書いているのは、「キリストにまみゆる日の希望」ということで、それは時間を軸にした「来(きた)るべき日」のことです。パウロは近い将来、イエス・キリストが再び来ると考えていたので、このように時間を軸にした「来るべき日」に「希望」が完成するとしていたのでしょう。
フィレモン書の冒頭は、一見すると信仰と愛が示されているだけのように思えますが、第3回で、6節について「『キリストのためになされている』とは『希望』の事柄なのです」とお伝えしましたように、言葉としては「希望」はありませんが、内容的にはパウロの他の手紙と同じように、ここで「信仰・愛・希望」が示されていると私は見ています。「キリストのためになされている」とは、キリストの日に向けてということであり、それは「時間を軸にした『来るべき日』の『希望』」ということです。
それに対して、コロサイ書1章5~6節は、5節はフィレモン書の4節とほぼ同じなのですが、6節には「天に蓄えられている希望」とあります。パウロの通常の「時間を軸にした『来るべき日』の『希望』」ではなく、「今現在すでに天にある『希望』」ということです。このことについて永田竹司氏は『新版総説新約聖書』の中の「コロサイの信徒への手紙」において、以下のように書いておられます(301ページ)。
終末論(筆者注・「来るべき日」のこと)についても、確かにパウロ的な時間的未来的要素は、3・3~4の来るべきキリストの再臨への言及において認められる。しかし、終末的事態は、復活の生命を含め、すでに成立している(2・12~13)。ただそれは、天においてのことであり、いまだ地上では隠されている(3・3、1・5の「希望」についても同様)という空間軸を中心とした世界観に基づく理解が展開されており、パウロ的な時間軸を中心とした終末論とは異なる。
私は、コロサイ書の「希望」については、永田氏のこの説明が一番しっくりするのです。パウロの真性書簡における「希望」は、フィレモン書も含めて「時間軸を中心とした終末論」であるのですが、コロサイ書では「空間軸を中心とした終末論」であるということなのです。ここがコロサイ書の大きな特徴の一つでありましょう。それは、再臨への切迫した言及をしているパウロを肯定しつつも、新たな神学を打ち出している擬似書簡の特徴ともいえるのではないでしょうか。同じ擬似書簡である第2テサロニケ書についても、それは言い得るのではないかと思います。
私たちは、真性書簡の「時間軸を中心とした終末論」を大切にしながらも、コロサイ書における「空間軸を中心とした終末論」をも同様に大切にしつつ、「信仰と愛と希望」の歩みをすることが大切であると思うのです。それはたとえ今、困難の中にいたとしても、希望が将来ではなく今、天において栄光の姿として成立しているということです。ですから、コロナ禍の状況にあっても、「栄光にあずかる希望」を、私たちは「今」得ることができるのです。(続く)
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