本コラムは、パウロの真性書簡である「フィレモン書」と、パウロ書簡の中の擬似書簡である「コロサイ書」と「エフェソ書」を、コロサイ書の著者はフィレモン、エフェソ書の著者はオネシモと見立てて、「パウロ(フィレモン書)→フィレモン(コロサイ書)→オネシモ(エフェソ書)」の関連性において、3つの書簡を読み解いていくものです。現在は、2番目の書となるコロサイ書を読んでいます。
さて、今回はそのコロサイ書の4回目です。1章13~20節を読んでみましょう。
13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14 わたしたちは、この御子によって、贖(あがな)い、すなわち罪の赦(ゆる)しを得ているのです。
15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18 また、御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
この箇所は、全節に「御子」という言葉が出てきます(ただし「ヒュイオス / υἱός」という御子を意味する原語で書かれているのは13節だけで、あとはその言葉を指示する形で書かれています)。そのようにして、「神の御子であるイエス・キリストがなさった出来事である」ということが強調されているように思えます。また14節では「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と、コロサイ書のとても重要なキーワードの一つである「赦し」について書かれています。新約聖書では、「赦し / 赦す」は主に、「アフェシス / ἄφεσις」(赦し)と「ハリゾマイ / χαρίζομαι」(赦す)が使われていますが、両者には意味的に大きな差異はないと思われます。ここではアフェシスの方が使われています。
興味深いのは、パウロの真性書簡では、「赦し / 赦す」を意味する言葉として、アフェシスは旧約聖書の引用部分で1カ所しか使われておらず、他はすべてハリゾマイが使われていることです。パウロ書簡の中では、擬似書簡といわれるコロサイ書とエフェソ書において、コロサイ書のこの箇所と、エフェソ書1章7節の「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」においてのみ、アフェシスが使われています。これは、コロサイ書とエフェソ書の関連性を示すことの一つではないかと思われます。
今回の箇所は、15~20節は原始教会(最初期のキリスト教会全体を指す)の「キリスト賛歌」であるといわれており、13~14節(厳密には12節から)はその導入といわれています。キリスト賛歌については第7回でお伝えしたように、パウロはフィリピ書2章6~9節で引用しています。
コロサイ書のこのキリスト賛歌は、1番(節)と2番(同)になっているように思えます。
1番(15~18節a) | 2番(18節b~20節) |
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御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 | 御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。 |
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 | こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 |
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。 | その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 |
このように対応させてみますと、「リフレイン(繰り返し)」の技法が用いられているように思えます。そして、1番は「御子が先在者にして世界の創造主であること」を、2番は「御子が教会の頭にして十字架による神との和解主であること」を歌っています。
御子が創造主であり和解主であるということです。私たちはその御子の支配下に移されているのです。だから罪の赦しを得ているということなのです。賛歌が引用されて、「罪の赦し」の根拠が告げられているのです。そしてこのことがまさに、第18回でお伝えした「善い業(アガソス / ἀγαθός)」を行うことの強い動機であり、神の御旨の事柄であるのです。コロサイ書はこのことを基調にして、文が進められていきます。(続く)
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