明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
この連載コラムの執筆目的は、第1回で申し上げましたが、「パウロ以後の初代教会において、パウロ、フィレモン、オネシモという師弟関係の系譜が、どのような役割を果たしていたのか」ということにあります。正直これは聖書推理でもあります。しかし私は、単なる推理コラムにしていくつもりはありません。やはり聖書は聖書ですから、神の御言葉として向き合い、しかし可能な限り、それが執筆された当時の状況や事実を解き出すことで、私たちが御言葉を読むための助けとなればと願っています。
上記の目的のために、まずは基本になるフィレモン書を読み解き、パウロがこの手紙で願っていることは何であるかをはっきりさせる必要があります。そのために集中構造分析を行い、対称箇所の対におけるキーワードから内容を読み取っていくことが大切であると思いますので、現在はそれを行っています。しかし、本コラムの主眼はあくまでも、上記の目的であることをご承知いただければと思います。
さて、今回は私が行ったフィレモン書の集中構造分析から、「フィレモンへの愛」というキーワードを割り当てた「EとE´」(8~9節、19節b)を読みたいと思います。これまでと同じように、拙集中構造分析を示してから、聖書箇所を記します。
■ 私のフィレモン書の集中構造分析(キーワードと箇所のみ)
あいさつ文と祝祷 | A | 1~3節 | A´ | 23~25節 |
祈り | B | 4節~5節 | B´ | 22節 |
善い行い | C | 6節 | C´ | 21節 |
牧会 | D | 7節 | D´ | 20節 |
フィレモンへの愛 | E | 8~9節 | E´ | 19節b |
オネシモの過去と今 | F | 10~11節 | F´ | 18~19節a |
オネシモの送り帰しと迎え入れ | G | 12節 | G´ | 17節 |
パウロの元からフィレモンの元へ | H | 13~14節a | H´ | 15~16節 |
善いことが自発的になされる | I | 14節b(中核部) |
E 8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。
E’ 19b あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。
パウロにとってフィレモンは、テモテと同じように、弟子のような存在であったと思われます。年齢的にもパウロの方が上であったでしょう。私の想像ではありますが、フィレモンは30代~40代前半ではなかったでしょうか。パウロは50歳くらいであったと思われます。さらに19節によるならば、フィレモンはパウロに何らかの「負うていること」があったようです。これが何であったかは諸説ありますが、フィレモンはパウロによって信仰に入れられたとするものが多いようです。
いずれにしても、パウロはフィレモンに対して「遠慮なく命じること」ができる立場であったのです(8節)。しかし、パウロはそれをしませんでした。フィレモンに対して「むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」と、徹頭徹尾謙虚に出ています(9節)。私はこのことと19節の「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」という言葉に、パウロのフィレモンに対する愛による謙遜な姿を見ます。
パウロがこの手紙を書いたのは、エフェソ滞在中の紀元53~55年頃の獄に囚われていた時期であったとされています。同じ獄中において、パウロはフィリピ書を書いたというのが、今日の聖書学では定説となっています。そうなると、フィレモン書にはフィリピ書と共通することがあっても不思議なことではありません。フィリピ書の中には次のような箇所があります。
1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊" による交わり、それに慈しみや憐(あわ)れみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣(の)べて、父である神をたたえるのです。(2:1~11)
ちなみにここは、膨大な旧新約聖書の中でも、私が最も好む箇所の一つです。6~9節は、当時の教会の中に流布していたキリスト賛歌を、パウロが引用したといわれています。フィリピの教会の人々に、皆が謙遜になって他者を思いやることが説かれていますが、その根拠として「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あったイエス・キリストの姿を挙げているのです。その姿に倣うようにと書いているのです。
私は、フィリピ書のこの箇所が、エフェソの監獄にいたパウロの「論理」の部分であって、フィレモン書の今回の箇所が「実践」ではなかったかと考えています。イエス・キリストの姿に倣って謙虚に他者に愛を実践するということを、フィリピの教会の人たちに勧めつつ、自身はフィレモンに対してそれを実践しているのです。
プロテスタントの教会暦においては、一般的に公現日(1月6日)の前日までが降誕節とされていますが、この時季、私たちは、謙虚な姿として馬小屋に生まれたイエス・キリストに思いを馳せつつ、その姿に倣いたいと思います。(続く)
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