■ 私のフィレモン書の集中構造分析(キーワードと箇所のみ)
あいさつ文と祝祷 | A | 1~3節 | A´ | 23~25節 |
祈り | B | 4節~5節 | B´ | 22節 |
善い行い | C | 6節 | C´ | 21節 |
牧会 | D | 7節 | D´ | 20節 |
フィレモンへの愛 | E | 8~9節 | E´ | 19節b |
オネシモの過去と今 | F | 10~11節 | F´ | 18~19節a |
オネシモの送り帰しと迎え入れ | G | 12節 | G´ | 17節 |
パウロの元からフィレモンの元へ | H | 13~14節a | H´ | 15~16節 |
善いことが自発的になされる | I | 14節b(中核部) |
前回、上記のようにフィレモン書の集中構造分析をしましたが、今回はその中の「牧会」というキーワードを付けた「DとD´」(7節、20節)を見てみたいと思います。
D 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
D’ 20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。
ここには両方とも、「心(スプランクノン / σπλάγχνον)」という言葉が使われています。パウロは7節においては、「聖なる者たち(キリスト者たちを意味する、すなわちここではフィレモンの家の教会の信徒たちのこと)の心」、20節では「わたしの心」の「元気づけ」について書いています。「元気づける」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語では7節と20節でそれぞれ別の言葉が使われています。しかし、意味合いとしては同じようなことでありましょう。
「スプランクノン」というギリシャ語は、直訳すると「はらわた」です。日本語でも「はらわたが煮えくり返る(怒り)」「腹の底から笑う、腹を抱えて笑う(笑い)」という言葉がありますが、その場合の「はらわた、腹」に該当するものです。怒るとか笑うという感情は、人間にとって最も基本的なことです。そのような基本的な感情を感ずるところが「スプランクノン」です。フィレモン書においては、この言葉はもう一箇所、12節でも使われています。
本田哲郎神父が聖書の個人訳を出版されていますが、その中の『パウロの「獄中書簡」』に「フィレモンへの手紙」が収められています。本田神父は、「スプランクノン」を、7節は「はらわた(不安な思い)」、12節は「はらわた(熱い思い)」、20節は「はらわた(気がかりな思い)」と、それぞれカッコ付けの言葉を添えて訳し分けています。
「スプランクノン」の動詞は「スプランクニゾマイ / σπλαγχνίζομαι」といい、共観福音書で、イエスの感情を表す言葉としてしばしば使われています。新共同訳では「憐(あわ)れむ」と訳されていますが、本田神父の個人訳では「はらわたが突き動かされる」と訳されています。
パウロがフィレモン書で「スプランクノン」を使っているのは、イエスに代わって羊(信徒)を牧する立場に置かれている牧会者として、フィレモンを見ているからだと思います。ですから7節と20節の当該箇所の「はらわたを元気づける」とは、「牧会する」という意味合いを多分に含んでいると思います。7節では、家の教会の信徒に対して、フィレモンが大変良き牧会をしていることをパウロは喜んでいるのです。一方、20節では「わたしの心を元気づけてください」、つまり「わたしを牧してほしい」と解釈できる言葉をパウロが書いているのはどういうことでしょうか。
私たち牧師は、時々同労者たちで会うようにしています。そして祈り合っています。私はこの機会をとても大切に考えています。私の牧師経験では、そのような場所は2つあります。1つは自分の属する教団での所属地区牧師会、もう1つはもう少し狭い地域における超教派の牧師会です。私は努めてどちらにも出席しています。なぜなら、その場においては牧師同士の「相互牧会」といわれるものがあり、私はそれをとても大事なことと考えているからです。20節でパウロが「わたしを牧してほしい」と願っているのは、フィレモンを同労者として尊重し、相互牧会を願っているのだと私は捉えています。
集中構造において、「善い行い」「牧会」というキーワードで、このフィレモン書が中心へと向かって行くことが明らかにされます。そして、この手紙の本題であるオネシモに対するパウロの願いが明らかにされていくのです。(続く)
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